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吾輩は猫である。名前はトラだ。
飼い主の美代さんが付けてくれた。その前の名前もあったはずだが、吾輩が捨てられたのは仔猫の頃だったから覚えてはおらぬ。そもそもどんな飼い主だったか、なぜ捨てられたかもとんと見当がつかぬ。
美代さんと出会ったのは十年前、雨の夜だった。春とは言え、まだ人間もダウンジャケットを着ている寒い時期だったから、仔猫の吾輩はぶるぶる震えていた。何人かの人間が吾輩の前で足を止め、話し掛けてくれた。
「あら、あんた捨て猫なの」
「左様」
答えたつもりだが、なにせ寒い。弱弱しい「ニャーン」という鳴き声しか出ない。最初は拾ってもらえるのではないかと淡い期待もあったが、声は掛けれど通り過ぎるだけの人が続くにつれ、吾輩は運命を悟った。
「ああ、ここで人生、いや猫生を終えるのだ」と。
諦めて濡れた段ボールにうずくまる。腹が冷えては堪らぬと必死で立っていたが、どうせ死ぬ身だ。
その時に立ち止まったのが美代さんだった。彼女は吾輩の顔を覗き込むと、
「あんた、うちに来る?」
ウンともスンとも返事をしないうちに、自分のマフラーを解いて吾輩を包んで抱きあげた。ああ……あまりに寒くて痺れていた手足が急に温められて痛いほどだ。
「あたし、美代って言うの。美しいに、時代の代。あなたお名前は? ……って聞いても答えられないわね。とりあえず、トラ猫だからトラで良いかしら」
「ニャーン」
美代さんの家は、吾輩の捨てられていた場所のすぐ近くであった。古びた一戸建てで、どうやら他にご家族はいないようだ。マフラーを解かれたと思ったら、今度は風呂に入れられた。お湯が温かいと言っても、初対面の女性に身体を洗われ落ち着かない気持ちだったが、そんな吾輩の気持ちを察したのか美代さんは話し掛けてくれる。
「寒かったでしょう。汚れたり、ノミが付いたりしてるかもしれないから、綺麗にしましょうねえ」
洗われ、ふかふかのタオルで包まれて拭かれる。ドライヤーというのは、音は恐ろしいが温風が出るのは悪くない。身体が乾いたと思ったら、白いご飯に鰹節とツナ缶を載せたものを出してくれた。その香りを嗅いだら堪らぬ。体裁を取り繕うことも忘れてガツガツとかぶりついた。
「ああ……やっぱりお腹空いてたのねえ。ミルクもあげましょうか」
レンジでチンしたミルクをお皿に入れて出してくれた。これもまた美味しく、吾輩は顔を突っ込んで最後の一滴まで舐め取った。
その後は、美代さんがソファに毛布をひいて仮の寝床を作ってくれ、ありがたく一夜の宿をいただいた。でも、行きずりの人にこれ以上の恩をお借りするわけには行くまい。吾輩は翌朝失礼するつもりだったのだが、美代さんは、なにやらキラキラした壁に備え付けてある棚――それが仏壇というものであることを後に知る――に飾ってある写真に向かって手を合わせてブツブツ呟いている。
「ねえ、あなた。昨夜猫ちゃんを拾ったの。小さくて可愛いトラ猫。まだ赤ちゃんみたいだからお世話してあげなきゃいけないし、話し掛けたら時々ニャーンってお返事もしてくれるのよ。あたし、美優が独り立ちして、あなたがあの世に行ってから寂しかったけど、新しい家族ができたみたいで嬉しいわ」
……そんな風に言われたら、出て行くとは言えない。孤独な女性を置いて行くなど、男がすたる。吾輩は美代さんをお守りするため、この家に居候し始めた。
彼女の生活は判で押したように規則正しかった。朝は七時に起きる。仏壇にご飯をお供えし、ご飯と味噌汁とちょっとしたおかずで朝食をとる。吾輩にはキャットフード。洗濯機を回しながら掃除機を掛ける。それが終わったら近所のスーパーで買い物。時折、お友達と会ったり、公民館に行ったり、図書館で本を借りて来たりする。昼は大抵蕎麦かうどん。家ではテレビを観て、泣いたり笑ったりする。夕飯は十八時。腹が一段落したら風呂に入り、二十二時には布団に入る。
吾輩を居候させ始めた時点で、美代さんは八十歳近くでいらっしゃった。一度、娘さんと電話で喧嘩していたことがある。娘さんは、こんな高齢になってから猫を飼うべきではないと非難したようだ。
「じゃあ、トラを捨てておけば良かったの? ちっぽけで痩せた仔猫を肌寒い夜に? 死んじゃうわよ! あんただって、昔うちで猫飼ってた時喜んでたじゃない! とにかくもうトラを手放すわけには行かないわ。今じゃ『トラ』って呼んだらニャーンてお返事だってしてくれるし、あたしの言うことちゃんと分かってるんだから。……今だって、耳をイカみたいにして警戒してるわよ。自分のこと喋ってるなって。……大丈夫、あたし今年の健康診断でもどっこも悪いところないって。『美代さんは百まで生きるね』ってお医者様から太鼓判もらってるんだから」
彼女は、吾輩を安心させようとでも思ったのか、『絶対あんたを手放さないから』と言わんばかりに強く頷いて見つめた。ふわりと、仏壇に供えてあった黄色くて小さい花から良い香りがした。
美代さんはその黄色や白、ピンクのフリージアという花が好きだったらしい。毎年初春になると、その花を供えておった。春を十度迎えた頃には子どもだった吾輩も、美代さんと歳の差夫婦と言ってもおかしくないくらいの壮齢になった。
彼女も年相応に腰や膝が痛んだり、少し血圧が高かったり、呼吸器が少し弱ったりということはあった。でもまさかその朝、起きてこないなんて思わなかった。前日まで元気だったのだ。
「ニャーン、ニャーン」
美代さん美代さん、と何度も呼びかけ、彼女の胸を前足で押したり顔を舐めたりしたが全く動かない。異変を感じた吾輩は、隣家に走った。お隣の奥さんは大の仲良しで、吾輩のことも当然知っている。
「ニャーン」
玄関を前足で叩く。たまたま、新聞でも取りに来たタイミングだったらしく、奥さんが出てきてくれた。
「あら、トラじゃないの。どうしたの? 美代さんは?」
「ニャーン」
吾輩は、わが家へと戻りながら、彼女を振り向いた。さすがである、勘の良い彼女は美代さんに何かあったことを知らせようとしていることに気付いた。すぐに真顔でついてきてくれた。
そこから先、猫である吾輩にできることはなかった。美代さんの枕元に座っているだけだ。お隣さんが娘さんに連絡を取ってくれ、娘さんは道中で色々な手筈を整えたらしい。
「あぁ、美優ちゃん!」
お隣の奥さんが呼びかけたのが美代さんの娘か。黒に霜降りのコート、髪は栗色で綺麗にセットされている。娘だけあって美代さんの面影がしっかりある。丸い顔に小ぶりの鼻と口、つぶらな瞳。小柄で少しだけふっくらした体型もそっくりだ。血縁者に席を譲り、少し美代さんから離れた。彼女は既に冷たくなり始めた母親の傍らに座り、そうっと頬に手を伸ばした。
「お母さん……」
大粒の涙が彼女の頬を濡らす。これが美代さんなら、膝に乗って慰めてやるところだが、初対面の女性にそこまでするのは厚かましいだろう。吾輩は美優さんの傍らで、小さく「ニャーン」と励ましの声を掛けた。そこで初めて存在を認識したのか、彼女は吾輩を眺めた。
「ああ、これがトラですか?」
「ええ、そうよ。美代さんと熟年夫婦みたいに仲睦まじくしてたのよ」
お隣の奥さんに尋ねているが失礼ではないか。この十年、美代さんのことを一番よく知っているのは吾輩だと言うのに。
「うちに来たのは十年前くらいですよね? 確か。当時は仔猫だったみたいですけど」
「そうね。すっごく寒くて雪の降った夜だったから。美代さんが救ってあげたようなものよ。でも分かってるんでしょうね、ホントに美代さんのこと良く見てたわよ。今回だって、うちに走って来てニャーニャー尋常じゃない様子で鳴くんですもの。トラがいなかったら、すぐに分からなかったかもしれない」
美優さんは、まだ素直に認めたくないという表情ではあったが、感謝を伝えようとは思ってくれたのか、吾輩の背中を撫でてくれた。確かに美代さんが言っていた通り、猫を飼ったことのある人の撫で方だ。
初対面でいきなり身体を触らせるなど普段はしないのだが、美代さんの娘だし、母親を亡くして悲しんでいるのだから慰めてあげるのが吾輩の務めであろう。
「……そう言えば、この子、ご飯は食べてるのかしら」
「あらやだ、ごめんなさい! あたしもそこまでは気が回ってなかったわ」
美優さんは立ち上がり、勝手知ったる様子で台所に立つ。迷いもせず、吾輩のフードが入っている棚を開けたのには驚いた。確かに今朝から何も食べていない。ふらふらと引き寄せられるように台所に向かった。彼女は吾輩の食器も把握していた。フードをよそい、床に置く。美代さん以外の人がいるところで食事をしたことが無いのでバツが悪かったが、腹の虫には勝てぬ。
葬式は美代さんの家で行われた。せれもにーほーる、という外で行われる場合もあると知っていたので、吾輩もずっと美代さんと一緒にいられてホッとした。多くの人が弔問に来てくれて、美代さんの人徳を改めて知る機会になった。良い女だったもんなぁ……、美代さん……。
「美優ちゃん、トラどうする? うちの人、ネコアレルギーだから難しいのよねえ」
「うち、先住猫がいるんですよ……。うまくやっていけるかが心配で」
吾輩が何もわからないと思って話しているようだが、全部分かっておるわ! 全く人間というのは傲慢だ。人間以外の動物には知能がないと思っている。心配してもらわんでも、一人気ままに、空の下暮らしていくつもりだ。
十年連れ添った伴侶を失ったような悲しみで落ち込み、やさぐれていた吾輩だが、葬式が終わった時に何やら物騒な籠が我が家に持ち込まれた時にはぎょっとした。
「トラ。あなた、うちの子になろうね。弟がいるから仲良くしてね」
美優さんは、優しく、でも有無を言わせない調子で吾輩を籠に押し込もうとする。もう一人で暮らしていくから放っておいてほしいが、母を失った直後の美優さんを放っておくわけにもいかぬ。どうやら弟猫はまだ赤ん坊らしいから、女性を慰めることなどできまい。
愛する美代さんの娘のため、吾輩は決死の覚悟で、住まいを移すことにした。
新しい住処はマンションだ。うーん、これは気軽に散歩に行けないなあ。だが吾輩も寄る年波で足腰は弱ってきたから、丁度良いのかも知れぬ。緊張しながら美優さんのマンションに入る。玄関に並ぶ靴から、ご主人と二人暮らしらしいと知る。籠から出してくれると、彼女はすぐに美代さんと美代さんのご主人の写真に手を合わせる。……そして、この季節に美代さんが好んでいた黄色い花もある。美代さん……! あなたの娘さんを、これから吾輩が支えていきますよ。
仏壇の前に佇んでいると、後ろから別の猫の気配がする。振り向くと小さい黒猫がいた。
「あらフウちゃん! このトラ猫はママのママが飼ってたの。トラおじさん。仲良くしてね」
「は、初めまして」
フウちゃんと呼ばれた黒猫は、お行儀が良く引っ込み思案のようだ。少し震えている。そりゃそうか。マンションでお猫様のように囲われていたんじゃ……。と、彼をさっと眺めて吾輩は息を呑んだ。たぶん彼は片目が見えていない。それも先天的な病気ではなさそう。……たぶん虐待された保護猫だ。
「フウ、というのが君の名前かな?」
「はい。お仏壇の黄色い花がフリージアって言うんでしょう? 美優ママの好きなお花だから、それにちなんで付けてもらいました」
「良い名前だね。美優さんのママ、美代さんもこの花が好きだった。捨て猫だった私は、美代さんに命を救われたんだ。そして十年になる。美優さんは美代さん似で優しい人だ。放っておけないって私を引き取ってくれたくらいだから。君は必ず幸せになれるよ。これから家族としてよろしくな」
そう言った端から、フウは吾輩に身体を摺り寄せてきた。……可哀想に。猫には猫からしか得られない愛情があるからな。吾輩も、美代さんのご近所の雌猫と……、いやいや、これ以上の話は赤ちゃんの前では止めておこう。
やれやれ。そろそろ隠居だと思っていたが、美優さんを慰めたり、フウを一人前の雄猫に育てたりと色々忙しそうだな。吾輩は、とりあえず前足をひと舐めしてひげを整えると、フウを舐めて毛繕いしてやることにした。
(了)
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