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葛郡が深々とお辞儀をして去っていったあと、私は掌に乗せた球体をしげしげと見つめていた。淡い桃色。桜の花びらをイメージしているのだという。説明書によれば、桃色の球体の名称は『spring』。春の季節を持ち運ぶことができるということだった。
お試し版として葛郡から手渡されたのは、この『spring』だけだった。
他の季節の『pocket season』もあるのだが、お試し期間中はこの一種類のみの取り扱いになるらしい。現在、季節は真冬のさなか。寒さで心身の調子を崩しがちな私にとっては辛い時期である。こんな球体一つで暖かい春が訪れるのなら願ってもない話だが、実際に使ってみなければ、その真価は分からないというのが正直なところだった。
『pocket season』の使い方については、葛郡から簡単なレクチャーがあった。
私は彼の説明を思い出しながら、球体の表面に触れてみた。
「こちらの球体には、二百四十時間分の『春』がチャージされております。使い方は簡単です。ご利用したい時にこの『spring』をお持ちいただき、起動のスイッチを押していただくだけで、即座に『春』が訪れる仕様となっております。効果が適用される範囲は、球体を中心とした半径五メートル以内。もちろん、起動後に『spring』を持ってその場から移動された場合には、効果範囲も追って動きます。起動のスイッチを押した瞬間から残り時間のカウントが始まり、もう一度同じスイッチを押していただければ、カウントが止まって機能が停止します。残りの使用時間は球体の面にデジタル数値で表示されますので、使用中は『春』の残量にお気をつけながらご利用くださいませ」
滑らかな手触りをした球体の面には、確かに触れれば分かるほどの僅かな凹凸があった。見れば、円形の印が刻み込まれている。起動のスイッチだろう。私は短く息を吐き、そのスイッチに人差し指を押し当てた。カチ、と小さな手ごたえがあった。桃色の球体の表面に、若草色に光るデジタル数字が表示される。
240:00:00
239:59:59
239:59:58……
一秒ごとのカウントダウンが始まった。
本当に『春』が来たのだろうか。
部屋の中を見渡してみる。目に見える分には何の変化もない。
しかし、体感では明らかに違っているところがあった。
暖かい。
部屋の中の空気が、急速に暖かくなったのだ。
現在、この部屋で使っている暖房器具は石油ストーブひとつだけだ。それも火力を強めたわけではない。にもかかわらず、いつの間にか薄っすらと額に汗ばむほどに、私の周りは暖かくなっている。明らかに、周囲の気温が変わったようだった。これが『spring』の効果なのだろうか。だとすれば、ものすごい技術のように思える。これといった燃料も使わずに、こんな小さな球体一つの力で、瞬間的に周りを暖めてしまったのだから。
確かにすごい。すごいのだが……。
そうして感心をする一方で、私の中には、どこか肩透かしを食らってしまったような印象があった。『季節』を持ち運ぶ、なんていう仰々しい紹介をしておいて、フタを開けてみればその正体が小型の暖房器具であったからだ。便利ではあるだろうが、私の生活を大きく変化させるような代物ではないように思えた。葛郡の商品紹介を受けて、『pocket season』への期待が高まりすぎていたかもしれない。温度を失ってしまった興奮の残骸を手放すように、私は手の中の『spring』を机の上に置こうとした。その時だった。
どこからか、鳥の鳴き声が聞こえた。
聞き覚えのあるさえずりだった。
壁を一枚挟んだ庭の方だ。我が家の庭には、梅の木が一本植えられている。その薄桃色の花弁がほころぶ頃になると、彼らはどこからかやってきて、枝にとまって鳴くのだ。
ほーほけきょ。
春を告げるという、ウグイスの鳴き声だった。
私はやにわに立ち上がった。
左手に『spring』を握ったまま、廊下を駆ける。向かう場所は庭だった。
まさか。いや、でも確かに聴こえた。今も聴こえている。もし、本当に春が来たのだとすれば、あそこに行けば一目瞭然のはずだ。
高鳴る鼓動を胸に、私は庭へと続く扉を開け放った。
柔らかな日差し。
確かに聴こえる、ウグイスの鳴き声。
そして、目の前には、薄桃色の小さな花たちが満開に咲き誇っている。
昨日までは蕾すらもついていなかった梅の木に、だ。
春が来た。そうとしか思えない。
『明日も冬型の気圧配置で、北日本日本海側や北陸は大雪や吹雪に警戒が必要です。晴れる関東から西の太平洋側も含めて、全国的に真冬の寒さとなるでしょう。お出かけに際には、防寒のご用意を万全に……』
隣家からラジオの音声が聞こえてくる。
季節は確かに冬なのだ。それなのに、春は訪れている。この『spring』を中心とした、一定の範囲に限って。
ほーほけきょ、とウグイスが鳴く。満開に咲いた梅の木を眺めながら、私は手の中の『pocket season』を強く握りしめていた。
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