明暦の大火、呪われた振袖

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 明暦三(1657)年、正月十八日からの二日間、江戸市内の大半を灰燼にした大火事があった。俗に「振袖火事」と呼ばれた。なぜそう呼ばれたのか。そこには少女の悲哀が関係していたかもしれない。  約10万人の死者を出した江戸時代最大の大火災。後に恋の病でこの世を去った娘の振袖が原因だったとと噂されたことから歌舞伎や浄瑠璃、浮世絵でも「振袖火事」として有名になった。  火事の原因とされる振袖は、娘が上野の花見で着ていた物を棺に納めた物だったとか…。  逸話だけに振袖の持ち主とされる主人公の名前もじつにさまざまだ。江島屋の娘といわれることもあれば、真田屋の娘とされることもある。娘たちの名前も菊、花、梅野など花の名前があてがわれていたり、他にも、きの、いく、たつ、などなど。では、「振袖火事」のお話の始まり始まり。  それは春のことでした。浅草諏訪町の大増屋十右兵衛の箱入り娘・お菊は、上野の花見帰りに、寺小姓の美少年に「何て器量のいい人」とひとめぼれ。それからというものお菊は食事も喉を通らず、寝ても覚めても寺小姓を想う日々を過ごした。名前も再び会うこともない美少年への思いは、会えない時間が恋を育て上げ、せめてもの慰めにとかの美少年が着ていたのと同じ模様の振袖を作ることにした。  一歩近づいた思いはお菊をさらに苦しめる。食事も出来ず寝ては覚めてでついには病に臥せ、恋しい相手に会うこともできず、明暦元年1月16日、16歳の若さでこの世を去った。  娘の気持ちを憐れんだ両親は、棺に大事にしていたお菊の魂の乗り移った振袖をかけて、本郷丸山の本妙寺に葬った。「なんと素晴らしい振袖なんだ。燃やしてしまうのは勿体ない、と三十五日の法事が済むと和尚はお菊の振袖を古着屋にこっそり盗み出し売ってしまった。お菊の無念か恨みか、売られた振袖は持ち主を変えながら三年続けて同じ月日に、同じ年齢の娘の命を奪っていった。亡くなった思いのしみ込んだお菊の振袖を最初に手にしたのは、本郷元町の麹屋吉兵衛の娘、お花だった。お花は、古着屋で見つけたこの振袖に心を引かれて両親に強請って買ってもらった。その翌年、お菊と同じ1月16日に16歳で原因不明の病で亡くなった。お花の葬式は本妙寺で執り行われ、お菊と同じく振袖は寺に納められた。法事が終わり、振袖は再び古着屋の手を経て、今度は中橋の質屋伊勢谷五兵衛の娘・いくが手にするのだがいくも振袖を手に入れた翌年の1月16日に16歳で亡くなってしまう。  何かが可笑しい、不気味に思った本妙寺の和尚は不思議な因縁を治めようと供養をして振袖を焼き払うことにした。和尚が読経しながら振袖を火に投じると、突如として一陣の強風が吹き荒れた。すると、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、本堂に飛び火し激しい火柱が立ち上がった。火は瞬く間に広がりと勢いを増し、江戸の市内をも飲み込んでいった。明暦三年正月十八日の事だった。大火の前日から北西の強風が吹いていた。  江戸の町は前年十一月から八十日近くも雨が降っていなかった。一滴も雨が降っていないカラカラの天気に、強い季節風。市内は乾いた砂ぼこりが舞い上がり、乾いていた。気象条件と密集した木造建築の成せる業。  「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」と藤月岑(さいとうげっしん)藤月岑は、『武江年表』記している。江戸の町の人口は二十八万人だったというから、数字からもその被害の大きさが伺える。明暦の大火の記録書『むさしあぶみ』には、江戸市内に広がった火に逃げ惑う人びとの姿が描かれている。  出火の原因は恋の病でこの世を去った娘の妄執、武家の失火、あるいは都市計画のために幕府が仕向けたものだったり…。真相は紅蓮の炎に包まれ闇に溶け込んだ。  「喧嘩と火事は江戸の華」。江戸は火事が多かった。天正十八年に徳川家康が江戸に入部してから明暦の大火までの六十七年の間に、140件の火事が発生している。当時、三都と呼ばれた京都や大阪よりも江戸の火災は多かった。その火災の 62%が武家屋敷から起こっていた。この火事で亡くなった人の多くは身元や身寄りのわからない人々。亡骸を弔うために建てられたのが東京・両国にある回向院(えこういん)回向院だ。火元になった本妙寺は、移転して今は西巣鴨にある。この大火のあと、江戸の町は整備され、今日の東京の街並みの原型ができたとされている。災害は町並みの更生機会ともなっている。
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