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幻想ポケット
『それでは、続いてのニュースです。近年深刻となっている若者、および母親のポケット依存。全国ポケット連盟の調査結果によりますと、20歳以下の若者および母親の低度ポケット依存率は36%、中度依存率が18%、完全依存率が4パーセントとなっており…………』
ああ、どうでもいい。
そんなの知ったこっちゃない。
僕はさっさとテレビを切って、温いこたつのなかで大きなあくびをした。15分後には学校の登校登録をしなければいけないというのに、こんなニュースを見せられたらその気も失せてくる。
2124年、日本政府は出産したすべての女性にポケットを配布する法令を出した。
ポケットと言っても、ただのポケットではない。それは持ち主の脳内を反映するもので、中身は主の思った通りの世界にできるように開発されている。見た目は普通のポケットだが、小さくなって自分が中に入ることもできるし、逆に人を中に入れることもできる。
使い道は実に自由。
子育てのストレス発散できる趣味の場にしてもよし、夫との静かな2人きりの時間を確保できる場にしてもよし、子供を中に入れて遊ばせてもよし。全く使わない母親もいる。
僕の母親は、ポケットのヘビーユーザーだ。
父親は僕が産まれて間も無く交通事故で死んだらしく、忙しい母親は産まれて間もない僕をほぼポケットに入れっぱなしで育てた。
だから僕は正真正銘のポケット依存者だ。
でも不幸ではない。
母は小説家である。それゆえに想像力が人一倍豊かだった。
僕が欲しいと言ったものは持ち前の想像力でなんでもポケットの中に出現させてくれたし、母親自身もポケットの中に入ることができるため、仕事が終わったら母にも直接会えた。
おかげで僕がポケットの中の生活に苦労することは全くなく、だから僕もポケット依存の状態を悪いと思ったことがない。
小学校低学年のときは好奇心で外に出ていたが、そのうち外に出る意味を感じなくなってしまった。
母のおかげでポケットの世界は外の世界とまったく同じものとなっていたからだ。
ニュースで口うるさく報道されるポケット依存問題、それは母親が育児放棄状態になり子供が外の世界を知らずに育ってしまうことへの問題提起である。現実社会から目を背けて閉じこもり、一生外に出られなくなることへの。
僕の場合、母は育児放棄をしていないし僕自身外の世界を知っている。毎日ニュースを見ているから世界情勢にも詳しいし、出ようと思えば簡単に外に出られる。
中学にもオンラインで通っている。ネット上に友達もいる。友達をポケットに招くこともある。
家がある。道がある。街がある。
母が創り上げたポケットは他のものと次元が違うのだ。
つまり僕は問題視されるポケット依存には当てはまらない。だから、あんなニュースなど、僕には関係ない話なのである。
こたつから這い出てパソコンの前に座り、授業を受けるために生徒IDを入力する。
学校アプリに入ると、すぐに何人かの生徒からおはようのスタンプが来た。やたら白目の大きいハリネズミのキャラクターのスタンプ。好きではないがそれしかないので、僕もそれを返した。
授業は寝ずに受け、昼休みにはオンラインサッカーで遊ぶ。放課後になったらポケット内に作った図書館に籠って本を読む。
午後6時ごろになると母が入ってくる布ずれの音が聞こえて顔をあげる。2人で夕食を食べる。今日読んだ本の話をして、母が今夜はここで寝ようかなと言い出す。風呂に入って、寝る。
「じゃあ今日もちゃんと授業受けるのよー」
「当たり前だろ。入学して二年間一度も寝たことすらないんだから。テストだって毎回100点取ってるの見てるだろ」
「よくできた息子で助かるわぁ」
朝になると、じゃよろしくーと、のんきなことを言って母がポケットを出て、仕事に行く。
いつもの日常、ありきたりの毎日の繰り返し。
ポケット依存とかどうだっていい。僕はこの毎日が好きなのだ。
✳︎
今日もいつも通り、同じ生活を繰り返す。やはり何の不自由もない。
むしろ最近は、なんだかずっと夢の中にいるような感じがする。
調子が良すぎるのだ、少し。
ものすごく平和なのだ。おかしいくらいに。
朝、ニュースを見ていても大した話がない。
どこどこの街のなんとか像が盗まれたが犯人が玄関先にそれを飾っていてすぐに捕まったとか、どこかの小学校で飼っていたウサギが全部逃げ出して畑でニンジンをかじっているのが各地で発見されているとか、まあまあどうでもいい話しか流れてこなくなったのだ。
まあ悪いことが起こっていないのはいいことなのだが。
学校も、少し前よりずっと平和になった。
朝、学校アプリに入って登校登録をすると、1分と経たないうちにクラス全員からおはようスタンプが届くようになった。あの、微妙なハリネズミのスタンプ。
オンラインゆえよく起こる生徒間のいざこざもここ最近全くない。みんな仲がいい。みんな笑っている。少し、怖い。
母と食事をするときも、嫌いな食べ物が全く出てこなくなった。お菓子も食べたいだけ食べた。
もともとほぼ何の苦労も感じない生活をしていたが、そんな暮らしの中にも面倒なことはまあまああった。その面倒さが僕の生活の起伏を作っていたと思う。
それが無くなった今の毎日は少しつまらない。
恵まれたものだ、平和がつまらないだなんて。
「ただいまぁ、ご飯にしよー」
布ずれの音と共に母が帰ってきた。
「おかえり」
テーブルにハンバーグプレートをとフォークを並べ、母と向かい合って座る。
「どうだった?学校は」
「まあ、いつも通り」
「そう。そりゃいいわね」
「仕事はどうなの?」
「うーん、そうね。まあ、いつも通りね」
特に大事な話をするわけでもなく、取り留めのない話を続ける。
今すぐに話したいこと、話さなければいけないことは一つもない。だって毎日変わりがないから。
母の仕事の話になったとき、ふと外の世界について考えた。たまには、友達の家にこちらから出向くのもいい。
ニュースで噂のポケット依存者とは違って、幸い外に出るのに母の許可がいるような劣悪な環境ではない。
明日、ふらっと外に出てみようと思った。
✳︎
次の日。
朝起きてニュースを見たら、「ペンギンの大家族、琵琶湖に出現」とあった。くだらなかった。
登校登録を終えると10秒もしないで全員からスタンプが届いた。一斉に34個表示されるハリネズミ。遅刻も1人もいない。はっきり言って、気持ち悪い。やっぱり変だ。
放課後になり、ぱらぱらと生徒が退出していく。僕はなんとなく全員が出るのを待ってから教室を退出した。
パソコンを閉じて、立ち上がる。
僕は外の世界に繋がるポケットの入り口へ向かった。やっぱり今日は外に出る気分なのだ。
入り口に着いて布の境目を探し、
「………?」
ない。
境目が見つからない。
どういうことだろう。いつもこのあたりにあったはずなのに。
急いでスマホを出して母に電話する。繋がらない。当たり前だ、仕事中だろう。
僕はまた境目を探した。
何年も外に出ていなかったせいで境目の正確な位置が分からない。ポケットの壁を手で触りながら凹凸を探す。………ない。
ない。
ない。
ない。
「!?」
あった。
境目は公園の鉄棒の裏にあった。いつもはゲームセンターのシューティングゲームの横にあったはずだ。
しかも、境目は塞がっていた。確かに境目の線はなぞれるのに、開かない。
おかしい。なんでだ?
僕は焦った。なんとか境目をこじ開けようと布を思いっきり引っ張った。
しかし、ポケットの力で小さくなった僕の非力な体に出せる力なんてたかが知れている。引っ張ったところで破れるわけがなかった。
ハサミを持ってきて切ってしまおうと思っても、小さなハサミではポケットの壁に穴を開けることすらできない。
「…………開かない」
それからどんなに頑張っても結局、境目が開くことはなかった。
疲れ果てて境目を前に座り込んだそのときだ。
「あれ…………?」
僕は境目の中にごく小さな糸の跡が見えることに気がついた。思わず立ち上がって見に行く。
「…………!」
客観的によく見てみると、布と同化した色の糸の跡はいくつもあって、境目全体にある。
なんだか嫌な予感がする。
プルルルル、プルルルル………
突然の着信音にびくりとする。母からだった。
『ごめんごめん、今昼休憩。どしたー?』
「…ああ、母さん。ちょっとこれから外に出ようかなと思ってさ」
電話の向こうの空気が、一瞬のうちに冷たくなったような気がした。
『なんで?』
「なんでって……なんとなくだけど」
『出る必要ある?』
「え、いや……」
『出なくてもいいように中に同じような街を作ったんじゃない。別に出なくていいでしょ』
母のいつもの明るい声が怖い。
「……でも、別にたまには出ても良くない?」
『何言ってんのよ。こっちに出たって何も変わらないのよ?出る意味が無いわ』
僕はスマホを片手に、もう一度境目に目をやる。
急に場所が変わった境目。
不自然な糸の跡。
取り繕うような母の声。
確信する。
僕は、ポケットの中に閉じ込められている。
閉じ込めているのは…………母だ。
✳︎
閉じ込められてから、もうすぐ一ヶ月経つ。
僕は、どうして僕をポケットに閉じ込めるのか、まだ母さんに聞けていなかった。
食事のとき、少しでも外の世界を話題にすれば母の体がこわばるのが分かる。外に出ようという意思を少しでも見せれば、ものすごい剣幕で止められる。
昔からめったに怒らない優しい母だったゆえ、僕を外に出さないのには何か理由があるのだろうと思うと怖くて何も聞けない。
それでも、心の中では疑いが消えない。
母さんは僕を閉じ込めている。
僕が邪魔だったのだろうか?
外の世界にいたら目障りなほどに面倒な子供だったのだろうか。
自分の子供だと他人に言ったら恥をかくようななにかを僕はしでかしていただろうか。
ずっと僕が嫌いだったのだろうか。閉じ込めておきたい存在だったのだろうか。
母さんは毎日ポケットへ帰ってくる。
僕が外に出ないように、僕が寝ている間にこっそり入ってきて、また僕の気づかないうちに出ていく。だから、あっと思って境目まで走ったときにはもう固く閉じられている。
しかも、境目は毎日場所が変わる。僕に見つからないようにするためだろう。
きっとこれも寝ている間に、母が想像の中の世界をほんの少しだけ作り変えて境目の位置が変わるようにしているのだ。
その用意周到さにまた落ち込む。
僕の毎日は、日々変わる境目を探す旅に変わった。朝起きたらすぐにポケット中を走り回って今日の世界を把握する。
ぱっと見違いは分からないが、場所は確かに変わっている。しかも、境目は丁寧に閉じられているのでちょっと見ただけでは見つからない。気づけば一日中境目を探して走っている。
境目の隠し方の緻密さが母の思いの強さを表している。
母にどんなに外に出る意思を見せても、それは許されない。
やはり僕が邪魔なのか。
今日も境目を探し当て、座り込んでぼんやりと見つめる。今日は図書館の裏だった。
毎回外からミシンで縫っているのだろう。
そういえば小さい頃から、母は裁縫がとてもす得意だったな。
境目を見つけるとどっと疲れが押し寄せてきて、だんだん瞼が重くなる。
何も食べずにずっと神経を研ぎ澄まして走り回っているのだから当たり前だ。
ちゃんと家に戻らないと。もうすぐ母が帰ってくる時間だから……
ガタガタガタガタガタガタガタ
はっとして飛び起きる。
いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。
ガタガタガタガタガタガタガタ
ものすごい揺れだ。何が起きてるんだ?
母の作った街が、だんだん壊れていく。
目の前で放課後を過ごした図書館が音を立てて崩れていく。
ポケットは外からの衝撃がほぼ伝わらない設計になっているはずなのに!
母が街を壊しているのか?
僕はポケットの中で死ぬのだろうか?
一番考えたくなかったことが頭をよぎって離れない。その間にも揺れは続いている。
ガタガタガタガタガタガタガタ
図書館が倒壊した衝撃で周りの木も倒れてくる。僕に向かって倒れてくる。
このままだと、死ぬ、
ビリッ…
そのとき、倒れた木がポケットの境目を貫いた。
「!!」
夢中で外に飛び出す。
よかった。生き延びた。
そう思った瞬間だった。
僕は何年振りかに外の世界を直視した。
建物は無かった。
瓦礫が燃えていた。
空は不穏に澱んでいた。
黒い飛行機が煙を上げて飛んでいた。
強い風が吹いていた。
足元を見ると
母が血を流して倒れていた。
右手には今僕が出てきたばかりのポケットが
強く強く握りしめられていた。
誰のものか分からないラジオが転がっていて
小さな音を発していた。
『………速報、速報、ただいま、南西138番地にて爆撃を観測、ただちに避難せよ。今後別の地点に爆撃のある可能性あり。ただちに避難せよ』
僕は遅すぎる気づきを得る。
母は僕を閉じ込めていたのではなく
守ろうとしていたのだと。
ポケットの世界がおかしくなったのも、
現実とは違ってしまった平和な世界を
母が必死に守ろうとしていたのだと。
僕が気味が悪いと感じた平和は
母が守ってくれた平和だった。
僕は何も知らずに生きていた。
幻想の中でぬくぬくと生きていた。
僕はなんて、
なんて
馬鹿だったのだろうか。
母の右手からポケットを外し、手を握る。
ポケットは風に吹かれて、あっという間にどこかへ飛んでいってしまった。
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