眉月の傾ぐ朝

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新しい年が明けてから、気温がぐんと低くなった。 早朝の空気はまだ瑞々しく凍りつきそうなほどで、吐く息にしっとり溶けていく。 薄いオレンジの朝焼けもまだひんやりと冷たい。 風のない穏やかな朝の時間を、私はゆっくり歩き出す。手袋を忘れてきたことに気づいて、コートのポケットに両手を突っ込んだ。右手に冷たくて硬い金属が触れ、私はそれを握って温める。 さっき彼の家の玄関を閉めてきた名残り。 思いがけなく手渡されたそれは、私の戸惑いとリンクする。 『…いいんですか』 『どうせ余ってるし、他に使う奴もいない』 彼はあっさり私の掌に銀色の鍵をのせた。 いったい、事の重大さをどこまで自覚しているんだろう。 私がどんな思いで声や手が震えないように息をひそめていたか。口数の少ない彼の言葉から「それは返さなくていい」という意味を汲み取るのに、何度頭の中で反芻したか。 そうして、いい歳をして彼の言動に翻弄されるのは、私の方だけが恋をしているからなんだと思う。 会社の上司である新藤さんは、時々私の家で夕食を食べていく。 ふたりで食卓を囲み、食後のお茶を飲み干すと彼は帰り支度を始める。そんな夜がもう何度かあった。 昨夜(ゆうべ)もその予定だったが、私が残業になってしまったのだ。彼はしばらく考え込んだ。 『今日は俺の家にしよう』 『え?』 『俺が作る。終わったら電話くれ』 私の返事を待たずに彼は颯爽と夜に紛れていった。 初めて会社以外で会ったのが、休日の真夜中だった。 橋の欄干に(もた)れていた彼は、夜の底で人知れず悲しみと向き合っていた。カレーの材料を調達する途中だと話すと、彼が「食べたい」と言うので一緒に食べることになった。 あの時の涙の理由(わけ)はまだ聞けていない。 どうしようもなく心を弱らせて夜をさまよっていた彼は、子どもに返ったかのように無防備だった。 日々が過ぎて少しずつ笑顔や軽口が戻ってきた。 それでも瞳の奥には、未だに深い憂いの色が残っている。ちょっと触っただけで傷がついてしまいそうだ。 まだ、前に進めないのかもしれない。 教えられた道順を辿り、部屋番号を確認する。 チャイムを鳴らすとすぐに(かぎ)(ほど)かれ、部屋の温もりが頬を撫でた。 『早かったな』 『…お邪魔します』 お出汁(だし)とお醤油の香りがする。 キッチンでは鍋がくつくつと軽やかに音を立てていて、彼が蓋を取ると一気に湯気が立ち上った。 『ちょうどよかった。出来たぞ』 『何か手伝いますか』 『今日はいい。座ってろ』 お客様扱いの私は、言われるがまま椅子に座った。 無骨な丼に中高に盛られたのは肉じゃがだった。 牛肉にじゃがいも、しらたき、玉ねぎ。 自分で作る時は人参と絹さやを彩りにするが、こちらは潔いほど茶色のグラデーションだ。 お味噌汁には大根と油あげが見えて、刻んだ大根の葉が鮮やかな緑を添えていた。 『漬け物と味海苔くらいはあるけど』 『十分です』 『いただきます』 向かい側に彼が座ると、私たちは箸を取り声を揃えた。彼の流れるような手の動きに、いつもため息をこぼしそうになる。それほど彼の所作は美しく、食事への敬意が込められていた。 お味噌汁をひとくちすすり、ほっと息をつく。 取り皿なしがルールなので直に箸をつけて、お肉と玉ねぎを口へ運ぶ。メークインはどっしりと形を残していた。 優しい和の味が広がり、ふと笑いそうになって口元がくすぐったくなった。 『美味しいです。すごく』 『そうか』 少しだけ口角が上がったのを、私は見逃さなかった。 『一人暮らしを始める時に、母親が教えてくれたんだ』 『お母さんの味ですか。いいですね』 『だけど、何かちょっと違うんだよなあ…』 彼は首を(かし)げながらまた箸を動かす。 同じ手順、同じ材料で作っても、不思議なもので全く同じ味になることはない。作り手の個性が反映されるのか、(わず)かに何かが違うのだ。 『作れるか』 『教えてもらえれば』 『じゃあ、一度頼む。本人にはもう聞けないから』 …ああ そうだったのか 彼の憂いの理由が氷解した。 あれは、大切な人を(うしな)った悲しみだったのだ。 『同じに作れるかはわかりませんけど』 『構わない』 『…はい』 私が頷くと、今度は彼がはっきりと笑顔を見せた。 小さな一歩を踏み出した彼を愛おしく思った。 『ありがとう』 ずるいな… そんな顔で 今言うなんて 食事のあと、ソファでうたた寝してしまった彼を放って置けなくて、寝顔を見ているうちに私も(かたわ)らでうつらうつらし始めた。 揺り起こされた時はもう空が白み始めていて、バツの悪そうな顔で彼がコーヒーを()れてくれた。 『朝食作りますよ。コンビニに行って来ますね』 『帰ってもよかったのに』 『放っておけなくて』 『悪かったな』 金属の触れ合う音を立てながら、子どもみたいに()ねた顔になる。 『次はこれを使え』 建物の隙間から朝陽が射し込んだ。 下弦の眉月(まゆづき)がそれに追われて(かし)いで見えた。 ポケットの中の小さな鍵は、その存在を知らしめるかのように重みを伝えてくる。足取りが弾むのを何とかこらえながら、私は鍵を掌に包み込んだ。
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