青空に翔ける

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 薄暗く不潔で狭い部屋。それが彼女たちの住処だった。そこにいれば少なくとも食事にありつけ、一緒にいられる。ただそれだけだった。二人は見世物小屋に押し込められた化け物。そうして生まれ付いただけなのにさらわれ、晒されていることに悲しみもしたが、今更だとイリスは思う。  イリスは希少な白いケンタウロスだ。本来は賢く気高い種族であり、彼女もそうした気高さは持ち合わせていたが、見世物にされるうちずいぶんとすり減ってしまった。そんな彼女が曲がりなりにも気高さを保っているのはまだ幼い少女ポム・ドールのために他ならない。  ポムは言葉さえ曖昧なうちにここへ連れて来られ、泣いてばかりいた。そんなポムを憐れみイリスはそばにいると決めたのだった。ポムは黒く立派な角が生えているだけで特別なことはないにもない。言葉や知恵が少し遅れている。それくらいのことしかイリスにもわからなかった。  今もポムはイリスの大きな胴体に抱きついて眠っている。寄り添っているようになってからずっとポムにはそうして眠らせている。かけるものが薄いボロキレしか無くても少しはあたたかいからだ。  イリスはふと息をついて隙間明かりの漏れる壁を見上げる。外や廊下から聞こえる雑踏からもう朝が来たのだと察した。見世物小屋は夜遅くまで開いている。だが、朝早くなければ食べ物にちゃんとありつけない。イリスは身体が大きい分、興行主も怖いのか、それなりに食事をもらえていたが、ポムは小さく稼ぎも少ないからとあまりもらえない。  イリスが食事を分けてやれればいいのだが、イリスの食事はポムには硬く、やわらかいものがどうしても必要だった。 「ポム、ポム起きて」  ポムは眠そうに眼をこする。十八のイリスでさえ寝不足なのだ。まだまだ幼いポムが寝不足にならないわけがない。 「ポム、背中に上ってくれる? ご飯をもらいに行かなきゃ」  鳥のような声を出しながら、ポムはどうにか背によじ登る。ポムはなぜか無意識に鳥のような声を出す。角のある獣人族の一種だと思っていたが、鳥の仲間でもあるのかもしれない。 「ちゃんとつかまっててね」  ぴいとひな鳥のような返事が聞こえた。イリスはゆっくりと立ち上がり、そっと歩く。半分眠っているようなポムを乗せていくときは落としてしまわないようにいつも慎重に歩いている。ポムは近頃ますます起きられなくなった。体温が嫌に高い日が続いているから体調もかなり悪いのだろう。  こうして死んで逝くものは少なくない。イリスはそんな仲間を何人も見送ってきた。だからこそ、どうにかして生き永らえさせてやりたい。そのために努力はしているが難しいのも薄々わかっている。ポムは特に小さく丈夫とも言い難い。熱を出して小屋に出れなかったのをかばったのも一度ではなかった。  食堂に行き、ほとんど具のないような粥を小さな器にもらう。それがポムの取り分だ。イリスには硬いパンとチーズが与えられる。残酷なほど食事でも差を付けられる。売れっ子であれば品数も多く、人気がなければ粥さえ量が少ない。当然のように食べ物の取り合いも起きる。イリスは真ん中くらいの人気だが、身体がひときわ大きいから取られることはない。それだけが救いだった。  イリスは粥にチーズを細かくちぎって混ぜる。ほんの少しでもいいからちゃんと食べてほしかった。 「ポム、ご飯よ」  こくりと頷いたポムは椅子に座って少しずつ食べ始めたが、のろのろとしていてあまり進まない。元々小食で具合も悪ければ仕方のないことはわかっている。だが、早く食べさせなければ、足りなかった者たちの格好の餌食になってしまうだろう。ポムはここにいる者たちの中で一番小柄で非力だ。イリスに直接手出しできなくても、ポムならば怖くないと思うものが多い。 「ほら、頑張って、ポム」  ポムは悲しそうにぴぃと鳴いた。それは苦しくて食べられないとでも言いたげで、イリスは複雑な気持ちになる。 「もうひと匙でもいいから、ね?」  ポムはもうひと匙どうにか食べたが、匙を置いてしまった。器があっという間に持ち去られる。やはり、もうポムは長く無いのだろうか。食べなくなるとすぐ死んでしまうものが大半だった。踏みつけられた指先が真っ黒に変色してしまったのはいつからだろう。 「ポム……」 「ポム、イリス、大好き」  無邪気に笑って見せてくれた頬がこけているのが悲しい。あの非情な興行主があまり人気のないポムに情けをかけてくれるとは到底思えない。立てなくなれば生死など確認もせず捨てられる。それがここのルールだ。  立ち上がろうとしてよろけたポムをすぐに支える。 「ちょいと、イリス、ポムはどうしたんだい? 顔色が随分と悪いじゃないか」  声をかけてくれたのはラミアのジルバだった。彼女は長くここにいて一番人気であるだけでなく、面倒見がいい。いつも何くれとなく声をかけてくれる。彼女は裏で客を取っているといううわさもあり、身なりもよく、食事も特別待遇だ。  だからといって彼女に不信感を抱いているわけではない。ここで一番信頼できるのは彼女だ。イリスの人気がある程度あるのは彼女の助言に従ったからに他ならない。彼女は人の好き嫌いが激しいのでも有名だ。気に入られたのはイリスにとっても幸運だった。 「具合が悪いみたいなんです。ご飯もあんまり食べてくれなくて」 「ポム、元気……」  ジルバは冷たい手でポムの頬を包み込む。 「アタシが火傷しそうなくらい熱を出して、嘘お言いでないよ」  彼女はふとため息をついて体を起こす。 「イリス、ポムを生かすためなら何でもする覚悟はおありかい? ないなら、この子はアタシにおよこし。もう二度と苦しまないようにしてやろう」  ジルバの蛇のように先の分かれた赤い舌が唇をなめた。それは到底生かしてくれるとは思えない口ぶりでイリスはポムをぎゅっと抱きしめる。彼女は生きたままの動物を食べることもあると聞いていた。 「ポムを生かすことができるなら何でもします」 「ケンタウロスの誇りを捨てられるかい?」  ジルバの目が冷たく光る。 「はい。どうすればこの子を助けられますか?」 「簡単さ。客はバケモノを見に来てる。化け物のあさましい淫らな姿に連中は銭を投げる……」  ジルバは突然イリスの胸を鷲掴みにした。 「え……」 「上々だね。立派に育ったじゃないか」  彼女はずるりとイリスの後ろに回り込み、豊かな乳房を丹念に揉みしだく。 「あ、やっ」 「嫌じゃないよ。客の前でやるんだ。見せつけるんだよ。そうすれば、金になる。薬と栄養のあるモンを買ってやれるって寸法さね。今日は一緒の部屋にいてやるよ。アタシもポムがかわいいんだ」  いくら女同士でふりとはいえ、いやらしい姿を見世物にするのは抵抗があった。それでも、ポムを生かすためにたくさんの金が必要なのはわかり切っている。外で薬や食べ物を買ってもらうには多額の賄賂がいる。ジルバが同じ囚われの身でありながら優雅に暮らしているのは賄賂を上回る稼ぎがあるからに他ならない。 「やっぱり、やめとくかい? ケンタウロスのお姫様には無理だろうね」 「やります! ジルバ、あなたの力を貸してください」  ジルバはにいと笑った。 「いい子だね。仕度するからおいで。ポムもだよ」 「はい」  イリスはジルバの後をゆっくりとついて行った。もう堕ちた身だ。これ以上堕ちても変わりはしない。ポムを守るためにできることがあるなら何でもする。  満員の客の雑踏と下卑た笑い声が響く。時折飛ぶヤジが胸に刺さる。だが、それよりもジルバに導かれて漏れる自分の淫らな声にイリスは戸惑っていた。すぐそばにポムがいる。人形のような服を着せられ目隠しをされているが、声は聞こえているだろう。そう思うと羞恥が募る。 「ジルバ、許してっ」 「こらえ性のない子だねぇ」  ジルバはくつくつと笑って首筋を撫でる。 「みんなはこの子が乱れるのを見たいよねぇ?」  ジルバの問いかけに客たちは興奮気味に声を上げる。 「正直でいいことだ。若い娘の方がいいんだろ。ジルバ姐さんは悲しいよ」  くつくつと笑いながらジルバはイリスの首筋を長い舌でちろりと舐める。 「あっ」 「初々しいだろ? この子初めてなんだ。羞恥が何で溶けるか知ってるかい? 酒? 恋? 違う。なぁ、アンタたちならわかるだろ?」  格子の間から金が次々と投げ込まれた。 「よぅく、わかってるじゃないか。かわいいボウヤたちだね」  ジルバはイリスの小さな胸当てに金貨を挟む。 「ほぅら、いい子だ、イリス。もっといい声を聞かせておやり」  ジルバの手と舌で導かれるように声が漏れ、乱れる。金が確かに手に入るのだ。恥ずかしがっている場合ではない。それはわかっている。 「この子にキスを教えてやろうじゃないか。見たいボウヤはいるかい?」  また金が投げ込まれる音が響いた。イリスはジルバに身をゆだねる。彼女ほど巧みに人心を操るものはいないだろう。 「イリス」  そっと唇が重ねられた。最初はやさしく、徐々に激しく、彼女の冷たい舌が口内を蹂躙する。いやらしい視線が突き刺さる。ほしいものは手に入っているのに、なにかが削れていく気がするのはなぜだろう。イリスはその視線の中にどこか悲しげなものが一つ混じっていることに気付かなかった。  その日の稼ぎは信じられないほどになり、イリスはポムのために薬を買ってやれた。栄養のあるものも食べさせてやれたことでポムは元気を取り戻した。  あの日の稼ぎが良かったことに気をよくした興行主はイリスとジルバをたびたび一緒に見世物にした。そのおかげでこれまでよりずっといい暮らしができるようになったが、イリスは複雑だった。淫らな姿を客の前で晒すたび、何か大切なものがすり減っていくような気がしてならない。ポムの無邪気な笑顔を直視できない。ポムは毎日のように行われているのが淫らなものだと理解しているのかさえわからない。それでもイリスはポムを愛し、そばにいることをやめたくなかった。  不意と頭を撫でられて、イリスはびくりと身体をこわばらせる。 「イリス、やっぱりアンタには向いてないね」  そこにいたのはジルバだった。 「ごめんなさい、ジルバ……」 「いいんだよ。あんたは堕ちてなんかなかった。それだけさ。今日はお休み。あいつにはアタシから言っとくから」 「ジルバ……」 「いいのさ。アンタがまだきれいでよかった」  ジルバは少し悲しそうに笑ってずるずると去って行った。 「イリス?」  そっと触れられてイリスはポムを抱きしめる。 「何でもない。何でもないのよ、ポム」 「イリス、ここ、痛い」 「大丈夫……」  思ったよりもずっとつらかったのかもしれない。あふれ出した涙が止まらなかった。 「ポム、イリス、大好き」 「私も大好きよ、ポム」  ここにいる限り、きれいなままではいられない。そんなことわかっていたのに、わかりたくなかった。
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