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伊﨑は絵を描いていた。絵を描くために通っていた四年制大学を辞めてしまった。長い前髪に半分隠れた瞳は沈んでいていかにも冴えない風貌だが、声
だけはよく通る。神経質な印象とは裏腹に雑な字を書き、有無を言わせない口調で喋る。
三年で大学を辞めるというのは誰から見ても愚かな行動で、伊﨑自身もまたそう感じていた。少なくともそう自覚できるほど絵が巧くなかった。しかし絵を諦めるほどの勇気もない。そのうえ中途半端な想いをそのままにしておくいい加減さも持ち合わせない。
ほとんど衝動的に大学を辞めていた。
美大を卒業して広告事業で働く私は、仕事が終わるといつも伊﨑の様子を確かめに彼のアトリエへと通っていた。
伊﨑は大学を辞めてから一日中アトリエに籠りっぱなしの生活をしている。大の絵画好きだという伊﨑の父親が郊外に建てた、彼のためだけの小さなアトリエだ。そのうえアトリエとは別に母家まである。
金持ちなんだろう。
しかし伊﨑は父親のことをあまり良く思っていないらしく、あまり話題にした
がらない。他人の私からすれば、金を出して自由にさせてくれる親に文句など
到底口にできないが。いつだったか彼は父親について「あれを見ているのは鏡を見ているようで嫌だ」と言っていた。
似ているのだろう。
それが到底許せないことなんだそうだ。
彼と初めて会ったのは美術館で、館内でスケッチをしていた伊﨑に私が声をか
けた。そのまま引きずられるように私は伊﨑の絵が好きになり、伊﨑の絵への
向き合い方が好きになった。彼のようは熱意が、私には無かったから。
少し妬ましい。
ある日の夜、私がいつものように仕事を終えて伊﨑のアトリエに居たときふと思いつたように、
「『蜘蛛の糸』という噺を知っている?」
伊﨑が床に置いた大きな紙に、面相筆で線を引きながら言った。視線は手元から外れず、絵とは別の事柄を考えながら淡々と線を引いていく。よくそんな器用な事ができるものだと感心する。
私がそんな事を考えていると、「知ってる?」と伊﨑が繰り返した。
「知らない」
「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』。いや、もとはアメリカ人宗教学者のポール・ケ
ーラス書いた仏教説話『カルマ』にあって、これを鈴木大拙が訳した邦題が『因果の小車』なんだ。そして『因果の小車』をふまえて芥川龍之介が書いた
噺が『蜘蛛の糸』だ」
「詳しいんだ。はじめて聞いた」
「え、うそ」
伊﨑がようやく顔をあげた。
「有名なの?」
「有名だと思う」
私の方を見向きもせずに答えて、彼は立ち上がった。筆を洗って戻ってくるあ
いだ私は『蜘蛛の糸』がどんな物語なのかを必死に思い出そうとしたが、そも
そも一度も触れたことがないように思えた。やはり忘れたのではなくて、知ら
ないのだろう。
伊﨑は部屋に戻るなり床に敷いた紙を片付けはじめた。
「今日はここまで?」
「そう、ここまで。少し飽きてきた」
私には彼がどのくらい絵を完成させているのか検討もつかない。伊﨑は片付け
が終わると部屋の端から椅子を二脚持ってきて、私に座って待つよう言った。
このアトリエはダンス教室くらいの広さがあるのに、窓が二ヶ所しかない。ど
ちらも南向きの壁に並んでおり、三十センチ四方の嵌め殺しで高い位置にあるため空以外は映らない。
たぶん伊﨑の趣味だろう。
くすんだリノリウムの床に、画材が壁際に寄せて整頓されている。家具は背の
高いコーヒーテーブルしかなく、伊﨑がいつも場所を移動させるために定位置
がない。アトリエと呼ぶには寂しさを感じる部屋だ。私は自分のアトリエも、アトリエが欲しい気持ちも持っていなかったからこの部屋の寂しさが少しおもしろく感じた。
しばらくして伊﨑がコーヒーカップを両手に持って戻ってきた。寒かったのか
ブランケットを羽織っている。
彼はコーヒーカップをふたつとも私に持たせると、テーブルを持ってきて自分のぶんの椅子に腰をおろした。
私がコーヒーを渡すと伊﨑は口を開いた。
「犍陀多という殺人、放火、そのほかの悪事をはたらいた泥棒がいて―― 」
「待って、なんて?」
「カンダタ」
「それ、名前なの?すごいね」
伊﨑は話の腰を折られたと感じたようで苦い顔をして続けた。
「その犍陀多という奴は死んで地獄に落ちて、血の池で浮いたりしていたわけ
だ。しかしある日、極楽の池のほとりを歩いていた御釈迦様が何気なく池から地獄を覗いたとき、御釈迦様は犍陀多を見つけたんだよ。そして犍陀多がいっぴきの蜘蛛を殺さずに助けたことを思い出すんだ。そしてその善行に報いて地獄から救ってやろうと思うんだ」
「それだけ?蜘蛛を助けただけで?」
伊﨑は深く頷いた。
「犍陀多は極悪人だったが、そのとき彼は蜘蛛を哀れんで踏まなかったんだ。
小さな蜘蛛に同情までしたのかもしれない。善行に大きいも小さいもないんだ
ろうな」
「へえ、じゃあ私も救ってもらえるかな」
伊﨑は私の目を見て薄い笑みを浮かべた。
「どうだろう」
「怖いこと言わないでよ」
「― ― それで犍陀多を救おうと思った御釈迦様がふと横を見ると、蓮の葉の
うえに美しい蜘蛛がいて銀色の糸を出していたんだ。御釈迦様はその糸を手にとって、地獄へとそっと垂らした。地獄の犍陀多がふと暗い空を見上げると銀色の細い蜘蛛の糸があったんだ。犍陀多はこれにすがって登っていけばきっと地獄から抜け出せると思って、その蜘蛛の糸を掴んだ」
「ああ、なんだかその人が助からない気がしてきた」
「説話は分かりやすくあるものだからね」
私は頷いた。
「犍陀多は蜘蛛の糸をひたすらよじ登って、少し疲れてきたところで下を見て
みたんだ。すると、血の池はもうだいぶ遠くて見えない。かなり登ったと喜んでいたところ、よくよく見れば数えきれないほどの罪人が犍陀多の後を追って蜘蛛の糸をよじ登ってきていたんだ。この細い糸はこの人数に耐えられないと犍陀多は思った。糸が切れたら元も子もない。だから犍陀多は登ってくる何百
何千の罪人に向かって、下りろ下りろこの糸はおれのものだ、と喚いた。その
途端、ちょうど犍陀多のところから糸がぷつっと切れて全員が地獄の底へと再び落ちることになってしまった。極楽の池のほとりでそれを見ていた御釈迦様はただただ悲しい顔をして、また極楽の日常へ戻ってゆく。こういう噺」
「へえ、要するに自己中はだめってこと?」
「そんな雑にまとめるかなあ」
伊﨑はやはり苦い顔をして言った。
私は笑った。
「それで、どうかしたの?」
伊﨑はコーヒーカップを両手で持って、私から視線を外した。
「どっちだろうと思った」
「なにが」
「別に良いんだ」
しばらく沈黙が続いた。私は彼の答えを待っていたが、もはや彼は別のことに
思いを馳せているようで望んだ反応は得られそうになかった。
案の定、伊﨑は私の気持ちなど考えもせず不意に「送るよ」と言ってアトリエ
から追い出した。
空は暗く風は冷たく、雑踏に酔いそうで、外と私を隔てるようにコートの襟を立てた。
伊﨑の考えを想像することはいつだって不可能だろう。私はその不可解さが
醸し出す繊細な言葉に惚れているのかもしれないと思った。
その日は休日だったが、特にすることもないので伊﨑のアトリエへ行くことに
した。
彼のアトリエのあたりはちょうど紅葉していて、昼間に行くと青空に映えてと
ても綺麗だった。幾重にも敷かれた紅い絨毯がざくざくと音を立てる。
その足音が、背後から迫ってきたので私は伊﨑かと思って振り向いた。
違う。
白いワンピースを来た黒髪の少女だった。それはまるで絵本からそのまま出て
きたかのような儚さだった。
「すみません、伊﨑さんですか」
芯の通ったしっかりした声で少女が尋ねた。当然私は伊﨑ではない。しかし伊
﨑の性別さえ知らないというのは、彼の知人ではないだろう。
「違う」
「失礼ですがどなたですか」
少女が私をすっと見据えて言った。
「私は、」
私は伊﨑のなに?
私は誰?
「私は…… 、」
「ああ、今日は来客が多いな。君が昼に来るのは珍しい」
伊﨑がアトリエのドアから颯爽と出てきて言った。前の方はひとりごと、後ろ
の方は私に対してだろう。
伊﨑は少女を見て、
「こんにちは。お話は聞いていますよ」
と優しく言った。
「伊﨑さんですか?」
「はい。僕が伊﨑です。ふたりとも、中へどうぞ」
伊﨑は私たちをアトリエではなく母家の方に招いた。
少女は矢田香織と名乗った。学芸員として美術館で勤務しているらしく、伊﨑の絵を見かけてファンになったらしい。
リビングに通されるとすぐテーブルに三人分のコーヒーが用意された。矢田香
織は座ってコーヒーを口にすると、待ちきれないといったふうに口を開いた。
「私、伊﨑さんって絶対にすごい作家になると思うんです」
私は面食らった。しかし伊﨑の方は冗談でも聞いたように薄く笑っていた。
「伊﨑さんの絵って素朴でとっても素敵です。絵本とかって興味ありますか。
絶対似合うと思うんですよね」
きらきらした眼差しは少し眩しい。矢田香織は「そう思いますよね!」と突然私の方を向いて言った。私は驚いて「ああ」と呻いただけだったが、彼女は一切気にしていないらしい。
「一度お話してみたかったんですよ。絶対気が合うと思って!ねえ伊﨑さん、絵を売られたりしないんですか?私、買いますよ」
「時々イベントに参加した時には売ってる」
「ね、SNS とかされてないんですか?」
「うん。そういうのには疎いから」
「えー、もったいない。やりましょうよ、有名なイラストレーターさんいっぱいいますよ」
今や私が矢田香織に抱いた「儚い」という印象は消え去って、むしろ「厚かま
しい」とさえ思った。伊﨑はすっかり困っているようだが、それにさえ気づけないらしい。
「伊﨑の絵を買うならイベントにいらした時にどうぞ。それこそ主催者の方の
SNS に載ってるんじゃないですか」
思わずそう口にして、あとから攻撃的な口調じゃなかっただろうかと心配にな
った。しかしやはり彼女は全く気にしていない。
彼女はそのまま延々と「いかに伊﨑の絵がすごいか」「いかに伊﨑の絵が売れ
る絵か」という話を、変わらぬ熱意のまま語り続けた。私は辟易していたが、
伊﨑は少しの困惑とそれ以上の笑顔だった。
私はなぜか傷ついた。
最後に彼女は、
「絵本の件、もし気が向いたら連絡して下さいね。私、ちょっとした知り合い
がいるんです。すぐに形にできますから!」
と言って伊﨑と連絡先を交換して帰った。
「嵐みたいな人だった」
と伊﨑ははにかんだ。
「ねえ、本当に絵本にするつもりなの?」
矢田香織がいなくなるとリビングはとても静かになった。
「どうかな。まだ考えてる」
「考えてるんだ」
「楽しそうだと思ったよ」
嫌だ。でもそんなことは言えない。
だが表情に出ていたのだろう、伊﨑は私の顔をじっと見つめた。
「君って意外とめんどくさいね」
「仕方ないじゃない。嫌なのは嫌なの」
私は席を立った。
「さっきの子と、話してくる」
「なぜ?」
「あの子の意見が気に食わない。私は、伊﨑はまだ静かに絵を描いてるべきだ
と思う。その方がずっと上手くなるし、そうすれば後々困らないから」
「君は親じゃないんだから…… 」
私は伊﨑を置いて家を出た。
彼のため息が聞こえたような気がした。
矢田香織はまだ停めた車のそばにいた。
「矢田香織さん、」
私は歩み寄る。
「私、さっきのには反対です」
「え?」
「そもそも、あなた伊﨑のファンなんかじゃないでしょう。さっきの感じ、セールスマンのそれだった。学芸員でさえないんじゃないの?」
「言いがかりですよ」
と矢田香織は苦笑したが私は容赦しなかった。
「そうかな。本当は出版社にでも勤めてるんじゃない?伊﨑を引き抜く気だ
ったでしょ。名刺でも出したらどうなの?」
「もう、なんなのよ。そうだったとしたらどうなの」
彼女は心底軽蔑した表情で私を睨んだ。
「引き抜かないでよ。伊﨑にはまだ時間が必要だから」
「そんなの、彼の自由じゃない。それとも何、あなた伊﨑さんの彼女なの?」
私は、伊﨑の?
伊﨑なら確実に否定するだろう。だから私もそうせざるを得ない。
「違う。でも、」
「伊﨑さんはきっと絵本を描いてくれる」
「黙って。伊﨑のこと大して知らないくせに」
「待てよ」
伊﨑だった。
あきらかに低い声で、私たちに怒っていた。
「矢田さんは結局、美術館の人じゃないのか」
彼女は否定しなかった。かわりに小さな声で「すみません」と呟いた。
「失望した」
氷のように冷たい声だ。
それに有無を言わせない声だ。
私は泣きそうになった。もちろん矢田香織も同じだった。彼女はひとつ頷くと
車に乗り込んで、いなくなった。もう来ないだろう。
それから伊﨑が私を見た。
「結局、欲しがるだけか」
「なに?」
「糸ってさ、簡単に切れるんだよ。この前僕は君に蜘蛛の糸の話をしてどっち
だろうと言ったけど、それは立場のことだよ。お互いの。でも、さっきの人も君も、犍陀多だったね」
「じゃあ伊﨑はどうなのよ!」
私は薄々気づきながらも尋ねた。
「僕は助けられた蜘蛛じゃない。だから、御釈迦様かもしれない」
ああ、そう言うと思った。
そう言ってしまえるのが伊﨑の良いところだ。けれど今はそれが憎い。
泣きそうな私に、非情な彼は追い討ちをかけた。
「僕は君のことが好きじゃない」
ああ、冷たい。でもこの人が温かくしてくれた瞬間があっただろうか。伊﨑にとって私は、ただ絵を描くときに決まって隣にいるだけの観覧者ギャラリーにすぎない。
所詮、彼の思考には入り込めない部外者だ。
そんな部外者が一線を踏み出すことは許されるはずがないのに。
「私もだよ」
それだけで精一杯だ。
ある年の秋、銀に光る糸は私の目の前に垂らされ、そして簡単に千切れた。
欲しがってはいけないとわかっていながらも、欲してしまったのは人間の性なのかもしれない。
私にはわからない。
ただ伊﨑は私よりも高い場所にいて、手を伸ばすこともその手を届かせること
も不可能なのだ。それは禁忌に近い。
ただそこにいて、絵を描いてくれる。もう、それだけで十分だ。
季節外れの恋ははじめから存在すらしなかった。
でも、それでよかった。
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