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第六章 海
「まだ見つからないの?」
そのレストランを出る時だった。お釣りを渡しながらマスターが皆神さんに声を掛けた。
「はい」
「きっと戻って来るさ。心配ないよ」
「はい」
私はマスターの話しっぷりを見て、きっとこの人は人が好きなんだろうと思った。その人に対する話し方、声のトーン、気の配り具合、どれも深すぎず、軽過ぎず、いい按配だと思った。
「あいつ、まさか海に行ってないかな」
「海、ですか?」
「うん。あいつ海が好きだったろう?」
「あ、はい」
「ボディーボードとかよく行ってて、夏は真っ黒だったなあ」
「そうだったんですね」
「一緒には行かなかった?」
「私、夏の太陽が苦手で」
「そうだったんだ」
マスターは余計な話をしてしまったという顔をした。でもその表情も愛嬌があって、決して悪い感じはしなかった。そのお店のレジの上に海の風景写真を使ったインテリアパネルがあった。そこには「The Ocean」と書かれてあった。私はこのマスターも海好きで、それで彼と話があったのだろうと思った。
「でも、海は夏でなくてもいいしね」
「夏じゃない海ですか?」
「うん。夜空の星も綺麗だよ」
「あ、私、海に行きました」
「やっぱり連れて行かれたんだ」
「はい」
するとその人は何かを思い出したように明るい表情になって私を見た。
「影山さん、次は海に行ってみませんか?」
「海、ですか?」
「はい。是非」
「わかりました」
私たちはその店を出ると、それからその人と彼が行ったという海に向かった。鈴木は秋の海なんて初めてだと浮足立っていた。そこは湘南だった。
「ここで止めてください」
私はその人にそう言われてそこで車を止めた。そして車の窓を開けると潮の香りが車の中に押し寄せて来た。
「彼とはよくここに車を止めてそれで夜の海と夜の星を眺めていたんです」
「波の音も聞こえますね」
鈴木がそう言った。シートを倒せばこのまま寝入ってしまいそうな安らぎを覚えた。
「君と見た海、そう彼がここに来るとつぶやくんです」
「君と見た海、ですか」
「はい」
「なんか素敵な響きですね」
鈴木がそう言うと、その人は満足げに微笑んでいた。私はその人の表情を見るとよっぽど二人が愛し合っていたのだろうと思った。
しかしそれがどうして今は別れ別れになってしまったのかと思った。
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