六花と銀華とみかん

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凛烈な。 そんな表現がピッタリと当てはまる鋭い冷たさの横顔を盗み見る。 今日も今日とてラバウルは蒸し暑く、太陽は銀の光線を八方に伸ばしギラギラと地上を照らしている。 いつの間にか十二月になっていた。 師走、なんて言葉では足りない程ここは年中「師走」だけれど、気候も景色も真夏のそれ以外の何物でもない。 ぬるいを通り越して温かいに近い湿った風が汗の滲んだ首筋に気怠く絡んでゆく。 じとりとしたその空気の不快感に眉根が寄るのを感じながら、舟人は冷たい空っ風の吹く本土の冬に思いを馳せた。 外套の襟を立てカサついた指先を擦っては「寒い」とごちながら足早に帰路を目指すあの冬を。痛いぐらいに冷たくなった鼻は犬の濡れた鼻先のようで、頬の一番高いところは鬼灯のように赤く染まる。 しかし家に帰ればストーブの燃える匂いと、シュンシュンとヤカンが奏でる音に知らず肩に入った力と共にほっと気が抜けるあの感覚は日本でないと味わえない醍醐味なのかもしれない。 そういえば「寒い」という言葉なんて久しく口にしていないな、と思い無意識のうちに目の前の人物の、さほど日焼けのしていない雪のような色白の頬に指先を伸ばす。 瞬間、パシッ!と乾いた音と共に伸ばした指先は空を撫でる。 「……何だよ」 氷、というよりは深く冷たい井戸の底の泥濘のような、恨みがましい湿度を持った声が容赦なく突き刺さる。 「あ、いや、なんかしばらく寒いって言ってないなあ。って思ってさ」 「は?」 だからと言ってなんで俺の頬に手を伸ばすんだ。 とごもっともな視線で睥睨され、舟人は後ろ頭を掻きながら向かいにいる冷たくて美しい男を見る。 「由良はいつも涼しそうな顔してるから、頬もさぞ冷たいんだろうなって。触れたら本土の冬を感じられそうな気がしてさ、つい」 太陽のような笑みを浮かべる舟人に、由良は重たく溜息を吐きながら言う。 「……貴様のそういうところこそクソ寒いだろうが」 今は配給を待つ列の最中だ。 逃げ出したそうに数度足踏みをして、それでも由良は諦めたように舟人に背を向けた。 今日は配給の中にみかん缶があるらしい。 初めて会った時もそうだったが由良は比較的果物を好んでいる。あずき缶のような甘い物の配給にはさほど乗り気ではない様子で列に並んでいるが、今日は珍しく足早に向かうので舟人も慌てて後を追ったのだった。 「寒いと言えばさ、みかんもちょうど今が美味い頃だよな」 コタツに入り籠の中にはみかんの山、熱い緑茶を啜りながら一息つく様をポロリと零し、ますます本土の冬が恋しくなって「はあ〜」と嘆息すると「やめろ」と前を向いたままの由良が言う。 「なんだよ、ため息ぐらい良いだろうが」 「そっちじゃねえよ。みかん食いたくなるようなこと言うなって言ってんだ」 苛々した様子で振り返るなり、ギンと鋭く憎々しげな視線を送る由良に舟人は頬を膨らませて言い返した。 「だから今その列に並んでるんだろ」 「缶じゃねえよ、生のだよ」 男にしては細い造りの喉が上下し「生」と零れたその唇に思わず舟人の喉が鳴る。 由良はそれには気付かずに「やってらんねえ」と呟いて列から離れていった。 「ちょ、おい、由良!」 慌てて追いかけようと列から半歩踏み出して後ろを見るとずらりとみかん缶を求める若人で長蛇の列になっている。 「ウッ……由良ーッ!!」 今俺がここで外れたら並び直しな上この人数ではお目当てのみかん缶にはありつけないだろう。追いかけたい気持ちをグッと堪え、前後に並んだ地上要員たちから僅かに距離を空けられたことにも気付かずに舟人は足踏みをして列が進むのを待つのであった。 -------------------------- 配給のみかん缶を無事に受け取った後、舟人は由良を探して走り回っていた。 「なあ!由良を見なかったか?!」 道ゆく連中に片っ端から聞いては首を横に振られて数十分が過ぎた頃、いつかの浜辺に由良はいた。 椰子の葉陰に座り膝を抱えてぼんやりと海を見つめる後ろ姿が、どこか迷子の子供のように見えて舟人は思わずその場で足を止める。 由良の目の前には透き通った碧い海が果てしなく広がっている。 海と空が一続きになったような青の世界で、白い防暑服を着た由良は冬の初めにすぐに溶けて消えてしまう儚く薄い六花のようだった。 「っ、由良!」 このまま見ていたら目の前で音もなく消えてしまいそうで、不意に怖くなって舟人は叫び駆け寄った。 いつになく真剣で切羽詰まった舟人の様子に、由良は迷惑そうに顰めた眉根を瞬時に戻し鋭い視線を向ける。 「どうした」 敵の襲撃か、と素早く立ち上がった由良の身体を舟人はおもむろに抱きしめた。 「ッ、な、にすんだッ!」 舟人の腕から逃れ殴りかかる勢いでその胸元をドンと押し由良は距離を取る。 「由良が消えそうな気がして」 「ハア!?」 ふざけてんのかテメェ、とドスの効いた声で由良が舟人の胸ぐらを掴みあげた。 「ふざけてない。本土の冬のこと思い出して…でもここは年中真夏みたいで今が十二月だなんて信じられなくて、でもお前ってたまにどこか雪みたいだし、なんか……」 言いたいことが上手くまとまらず舟人はガシガシと頭を掻く。 「なんか!夢みたいな常夏の島で、本土に舞う雪みたいなお前が溶けて消えそうな気がして…そしたら居ても立っても居られなくて」 舟人の話を不機嫌な顔で聞いていた由良が鼻で笑った。 「何寝ぼけてんだ」 怒りを纏い地獄の鬼も逃げ出す声音で由良が続ける。 「真夏の海で溶けて消える雪片のような奴が、最前線基地まで来れるわけねえだろ」 太陽すらも凍り付かすようにどこまでも凍てついた氷の荒鷲の眼差しが舟人を射抜く。 「俺をそんな舐めた目で見てんなら貴様からまず凍り付かせてやる。本土の生温い冬なんかじゃ話にならない、血も凍る氷点下の冷たさだと思い知らせてやろうか」 由良のその視線と気配は、一等寒い冬の朝のように限りなく凛烈で澄み切っていた。 「悪いって、馬鹿にしたんじゃなくて」 「二度と俺に甘っちょろい幻想を抱くな」 なら時折無防備に見せる郷愁の念を漂わせたあの顔をするな、と舟人は心の中で言い返しながらも「悪かったって、降参、降参」と両手を上げる。 分かりゃ良いんだよ、というように鼻を鳴らして歩き去ろうとする由良の手を再び掴んで舟人はポケットからみかん缶を取り出しその手に握らせた。 「これで機嫌直してくれよ」 「……いらねえ」 「お前のために貰ったんだから、受け取ってくれなきゃ困る」 「だからいらねえ」 本当は欲しいくせに頑なな由良に苦笑して舟人は言う。 「お前が受け取るまで何度でも渡す。……俺がしつこいのは分かってるだろ」 心底嫌そうに顔を歪めて舌打ちをし、半ばひったくる勢いで由良は缶を受け取った。 「……貸しだからな」 「おう!貸しでも借りでも何でも!」 馬鹿には付き合ってられん…。と言い歩き去る由良を、舟人は今度は追わなかった。 追わずとも明日もこの先も、由良の隣にいられるのは自分だけだという自信があったから。 師走はいずれ睦月となる。 ふと昔に聞いた睦月の名の由来を思い出した。睦月というのは年始に親族が集まって睦み合うことから名付けられたという。 「睦み合う、ねぇ……」 小さく独り言ちて空を見上げる。 ぐるりと見渡したそこには師走とは思えない鮮やかな碧空が広がっている。 今はまだ真夏を閉じ込めたような青と緑に溢れたラバウルにいるけれど、いつかまた寒風に身を震わせガラリと戸を開けたらストーブの燃える香りと仄かな温かさにほっと一息吐ける日が来ると舟人は信じているし、それが今ここに自分がいる理由だ。 ……その家の中に、いてほしい人がいる。 今は師走の家路を急ぎたくなるような物悲しい寒さの中に一人いるその人が、春に向けて一歩踏み出すのを舟人はいつまでも待っている。 いつか親族のように、家族のように……睦み合う、そんな穏やかな時があることを教えてやりたい。 「……お前に缶詰じゃなく生のみかんを食わせるまで、俺は諦めないからな」 由良の去っていった後を見つめながら舟人は呟いた。 蒸し暑く真っ青な海と空が広がる南の地で、切れるような氷の鋭さを纏い続ける由良を想う。 凛烈さの中で不意に見せる六花の儚さが溶けてしまわぬように、誰も気付かないその花を自分だけは守り抜こうと舟人は空に輝く大輪の銀華に拳を突き上げた。
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