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久我立夏は部屋の畳の上に寝転がっていた。カーテンが閉められた部屋は薄暗く、肌寒い。ただ一か所だけ、あたたかく感じたのは、桐谷響が触れていた肩だった。
まだ、感触が残ってる。
指で触れてみる。胸が痛み、横へと体を倒した。
桐谷は立夏と家族になることを望んでくれた。その気持ちに嘘はないと思う。少なくとも今は。
先生もそうだった。
思い出の中の長い黒髪の女は、作り物のように美しい容姿をしていた。
切れ長の一重とメリハリのある身体のライン。そこまで記憶をなぞると、体が快楽を求め、ブルッと震えた。
まずい。
立夏は四肢を丸め、自分を抱きしめるように腕を掴んだ。
オメガの症状を抑える抑制剤はきちんと飲んでいる。なのに、爪先まで幸福を欲し、痺れる。番との関係はそれほどまでに立夏にとって深かった。
桐谷の前じゃなくてよかった。こんな姿、あいつには見られたくない。こんな、番に捨てられたのに、番を欲して火照りだす惨めな姿なんて、あいつにだけは決して。
ジャンパーのポケットにあった薬ケースからチュアブル錠を取り出し、舌の下で溶かす。
おさまれ。おさまれ。早く。早く!
涙が浮かんでくる。立夏は自分を嘲笑った。
これが現実だ。いくら桐谷が自分を愛してくれても繋がることはできない。キスすらできるかも怪しい。そんな人間、桐谷にどんなメリットがある? できないだらけの奴なんて、結局不要になる。桐谷の手をとった後の未来は決まっている。最後に地獄が待っているなら、このままの関係がいい。何も始まらないままがいい。
心が悲鳴をあげる。立夏は桐谷響が触れた肩を強く握りしめた。
そのまま眠ってしまったのは、薬の効果が大きかった。症状は治まっている。ほっとしたら、喉が急に乾いた。冷蔵庫からミネラルウォーターを手にし、口元で傾ける。食欲はない。明日も仕事だ。布団に潜ろうか。そう考えた時だった。
玄関のドアがノックされる。畳の上の目覚まし時計は午後九時半だ。ジャンパーからスマホを取り、画面を確認すると、ゾフからの着信履歴があった。
また、ドアが叩かれる。
「久我?」
ノアの声だ。
サンダルをつっかけて、ドアを開けた。
「招集がかかったから迎えにきた」
「ごめん。ゾフさんからの着信に気がつかなかった」
ノアは小さく首を上下した。
「オルタの方か?」
「ううん」
「そうか。……体がきついなら」
「平気。桐谷は?」
立夏は玄関の鍵を閉めた。
「泳がせている」
仲間に対して使うには聞きなれない言葉だった。
「話は車の中だ」
ノアは明らかに急いでいた。桐谷を早く見つけなければいけない状況なのだ。
桐谷は一人で動いたのか? どうして?
誰かを失う絶望の予感に、体が重く沈みそうだった。
なんとか車内に入る。助手席にゼアが座っていた。彼の両目が獣のように細くなっている。今、国枝渉の体を完全に支配しているのはオルタであるゼアだ。ノアだけでなくゼアまで駆り出さなければいけないほど、事態は緊迫しているのだろう。
立夏はノアに促され、運転席の後ろに乗った。ノアがアクセルを踏み、車が動き出す。
「ノア、話しが聴きたい」
知らず声が低くなった。
「ノアは運転中だから、僕が話すよ」
ゼアは肩越しに振り返り、微笑むと、また前を向いた。
「人間はオルタに憑かれると瞳が細くなるだろ?」
立夏は相づちを打った。
「ゾフは誤魔化してきたけど、響はオルタ憑きを見破れる体質でほぼ決まりだ。僕やノアの目が人と違うことに反応していた。僕たちだけじゃない。立夏が持っているオルタの症状にも、響は気づいていた」
頭を殴られた気分だった。
ゼアはこちらの様を目にして、くすくす笑った。
「ゼア」
ノアがゼアを諫める。
「ごめん。ノアのお気に入りをいじめるつもりはない。立夏がかわいかったから、つい」
「俺はかわいくなんてない」
桐谷のことがショックで声が弱る。
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