1・フォーカス(前)

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「荻原」  住宅街の道路で百合は後ろを振り返った。  街灯の下、制服姿のあの人がいた。  ずっと会いたかったその人は百合の足元を見て、険しい顔をした。 桐谷くん?  声をかけようとし、咽た。声が出ない。錆びついた歯車のように、うまく機能してくれない。  彼は百合の様子を目にし、瞳に力を宿した。 「足、痛いだろう? 嫌かもしれないけど」  彼は百合の前まで歩くと背を向け、少しだけしゃがんで見せた。百合をおぶろうというのだ。百合は自分の体重を預けることに抵抗があった。重たいと思われたら恥ずかしい。  百合が躊躇っていると、桐谷響は体を戻し、苦笑いした。 「悪い。もしかして、俺、普通じゃなかった?」  ぽたりと過去の記憶が百合の心に波紋を作った。  なんでもできる彼は、そうやって自分を下げることで、話しかけやすい雰囲気をわざと作りだしていた。  桐谷だと思った。本当に本物の彼だ。自分が知っている彼だ。  百合は首を横に振った。唾を飲み込んで喉を癒し、「私が怖くないの?」と問うた。 「怖くないよ」  桐谷は唇を伸ばした。  百合は唇を噛んだ。彼が覚えていないはずがない。突然、同級生から襲われたことを忘れるはずがない。 「あの日のこと、ごめんなさい」  桐谷から何を言われるのか怖くて体が震える。 「あれは荻原のせいじゃない」  ドキリとした。  風が心をすり抜けていく。  見えている桐谷は同じなのに、なにかが違う。 「話がしたい。荻原の家族とも」  家族のことを出され、ぞっとした。  百合は首を左右しながら後ずさった。 「聞いてくれ。荻原の症状は治せる可能性があるんだ」  百合は動きを止めた。  桐谷は何と言った? 症状? まさか、百合の中にいる邪悪な存在に気づいているのか?  ぐりゅりと脳が何かにかき混ぜられる。何かが百合の行動を支配しようと蠢く。  アイツは敵ダ。消セ……。 「荻原に俺だってわかってもらいたくて制服を着た。けど、俺はもう高校生じゃない。俺は警察官になった。俺の上司はオルタを専門とする研究者だ」  オルタ……。  言葉を胸中で繰り返す。  鼓膜が震えないのに、楽し気に息を吐きだす音がした。  怖い。自分が自分じゃなくなってしまう。  百合は両の耳を手で覆った。 「荻原、今はこれだけ理解してくれ。俺は荻原の味方だ」  アノ男ハ、我々ノ敵ダ。  やめて。 「家族に言いにくいなら、まずは俺と二人で話をしよう」  アノ男ハ警察官ダ。ツイテ行ッタナラ、牢屋ニ閉ジ込メラレルゾ。  聞きたくない。 「とにかく、ここを離れよう」  アア、マドロッコシイ……。  暗闇を走り抜ける電流が見えた気がした。  また、奪われる。あの日のように。  百合は消えゆく意識の中、桐谷が自分を恐れ、逃げてくれることを願った。
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