10人が本棚に入れています
本棚に追加
「荻原」
住宅街の道路で百合は後ろを振り返った。
街灯の下、制服姿のあの人がいた。
ずっと会いたかったその人は百合の足元を見て、険しい顔をした。
桐谷くん?
声をかけようとし、咽た。声が出ない。錆びついた歯車のように、うまく機能してくれない。
彼は百合の様子を目にし、瞳に力を宿した。
「足、痛いだろう? 嫌かもしれないけど」
彼は百合の前まで歩くと背を向け、少しだけしゃがんで見せた。百合をおぶろうというのだ。百合は自分の体重を預けることに抵抗があった。重たいと思われたら恥ずかしい。
百合が躊躇っていると、桐谷響は体を戻し、苦笑いした。
「悪い。もしかして、俺、普通じゃなかった?」
ぽたりと過去の記憶が百合の心に波紋を作った。
なんでもできる彼は、そうやって自分を下げることで、話しかけやすい雰囲気をわざと作りだしていた。
桐谷だと思った。本当に本物の彼だ。自分が知っている彼だ。
百合は首を横に振った。唾を飲み込んで喉を癒し、「私が怖くないの?」と問うた。
「怖くないよ」
桐谷は唇を伸ばした。
百合は唇を噛んだ。彼が覚えていないはずがない。突然、同級生から襲われたことを忘れるはずがない。
「あの日のこと、ごめんなさい」
桐谷から何を言われるのか怖くて体が震える。
「あれは荻原のせいじゃない」
ドキリとした。
風が心をすり抜けていく。
見えている桐谷は同じなのに、なにかが違う。
「話がしたい。荻原の家族とも」
家族のことを出され、ぞっとした。
百合は首を左右しながら後ずさった。
「聞いてくれ。荻原の症状は治せる可能性があるんだ」
百合は動きを止めた。
桐谷は何と言った? 症状? まさか、百合の中にいる邪悪な存在に気づいているのか?
ぐりゅりと脳が何かにかき混ぜられる。何かが百合の行動を支配しようと蠢く。
アイツは敵ダ。消セ……。
「荻原に俺だってわかってもらいたくて制服を着た。けど、俺はもう高校生じゃない。俺は警察官になった。俺の上司はオルタを専門とする研究者だ」
オルタ……。
言葉を胸中で繰り返す。
鼓膜が震えないのに、楽し気に息を吐きだす音がした。
怖い。自分が自分じゃなくなってしまう。
百合は両の耳を手で覆った。
「荻原、今はこれだけ理解してくれ。俺は荻原の味方だ」
アノ男ハ、我々ノ敵ダ。
やめて。
「家族に言いにくいなら、まずは俺と二人で話をしよう」
アノ男ハ警察官ダ。ツイテ行ッタナラ、牢屋ニ閉ジ込メラレルゾ。
聞きたくない。
「とにかく、ここを離れよう」
アア、マドロッコシイ……。
暗闇を走り抜ける電流が見えた気がした。
また、奪われる。あの日のように。
百合は消えゆく意識の中、桐谷が自分を恐れ、逃げてくれることを願った。
最初のコメントを投稿しよう!