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1・フォーカス(前)
M警察署オルタ専属班の待機部屋は地下にある。疎まれているわけではない。地下のすべての部屋をオルタ専属班が所有しているのだ。待機部屋の他は資料室、研究室、取調室、備品倉庫、武器庫などと区分されていて、そのどれにも鍵がかけられている。
警察の制服はもらったが、私服で来るように言われていた。響はプライベートと仕事の意識を切り替えるために黒色のスーツを選んだ。これに身体を包まれている間は警官らしくあろう。自己暗示にも近かった。
空調の機能が良いのか、湿り気もカビ臭さもない廊下を歩き、オルタ専属班のプレートがついたドアの前で立ち止まる。
他者の人格に過度な期待はしない。自分はやるべきことを淡々とこなせばいい。周りがどんな人格を持っていようが、目指すべきことは変わらない。
ノックをし、中へ入る。灰色の瞳がこちらを振り返った。切れ長な瞳だ。影があるのに綺麗な光を宿している。彼からフェロモンは漂ってこない。それなのに、わかった。わかってしまった。こんな一瞬でも、彼が自分の運命の番なのだと。
反射的に、視線が項へと向かう。そこにはくっきりと噛んだ痕があった。拳を握りしめ、悔しいのか落胆なのか判断のつかない感情を潰し、息を吸い込む。恋愛にもならなかった自分の運命に惑わされている場合ではない。
「おはようございます。桐谷響といいます。よろしくお願いします」
運命の相手は気のない顔で響に背を向け、机に頬杖をついた。体調が悪いのか、身体が重たそうだ。椅子には黒色のジャンパーがかけられている。よれたシャツと皺のついたカーゴパンツも黒で統一されている。黒々とした空間に、ところどころ跳ねた茶色の髪が心細げだ。
「堅苦し」
コーヒーカップを持った青年がハスキーな声で呟く。ゾクッとするほど瞳が細い。まるで狼のようだ。あの日の百合と同じ目。思った途端、まともになってと嘆く母の姿がフラッシュバックし、自分の考えを拒絶した。
水色の髪の青年は運命の相手の隣の席に座った。青年は腕の部分にオレンジのストライプが入った黒色のジャージ姿だ。肩より少し長めの髪を一つに結んでいる。運命の相手もだが、見た目が響と同じくらいか、下手をしたら若い。
響は真正面の席にいる獣人へと歩を進めた。歓迎には程遠いムードは白衣の獣人からも受け取れた。眼鏡をかけた獣人は響が記事や配信で追いかけていた、オルタの研究者であるゾフ・アルカディアだ。ゾフの横には助手と思われる白衣の青年がいた。彼の右の瞳もジャージの青年のように細い。整った顔の青年をチラリと窺い、記憶と擦り合わせたが、適合する人間はいなかった。記事にも配信にも、彼はゾフと共に出ていないのだ。警察の人間にしては幼さが際立つ。それにゾフが班長だとは思わなかった。そもそもオルタ専属班はこの四人だけなのか。机の数は五つだが、響の分ということか。
「署長から話は聞いている。私はゾフ・アルカディア。オルタの研究が専門だが、先月から班長を代行している」
響はわずかに眉を歪めた。
白衣の青年の瞳が響を素早く捉える。
「正式には、M署のオルタ専属班は林田忠臣班長がまとめているが、今はオルタへの治療のため、入院してもらっている」
後ろで、誰かが自嘲気味に笑う。ジャージの男ではない。響の運命の相手だ。
「林田さんも、俺に渡せばよかったんだ。俺はいつ死んだっていい。コミュニケーションがとれないオルタは、俺みたいなゴミくずに寄生させればよかったんだ。そうすれば苦しむこともなかった」
誰も何も言おうとしない。ゾフにいたっては手元の資料を見て、響に何かの説明をし始める。聞かなければいけない。社会に出たんだ。仕事に余計な感情を持ち込むな。
体中が警戒音を発するのに、爪先が灰色の瞳の青年へと向く。響が歩き出すと、ゾフは口を閉じた。
灰色の青年は自分の前で立ち止まった響を、虚ろな眼差しで見つめた。
「私見ですが、ゴミくずは他者の苦しみに無関心だと思います」
「……は?」
灰色の青年の目の下に、うっすらとクマができている。
「え?」
彼はジャージの青年を目にし、相手に視線をそらされると苦笑いして響を見上げた。
「なに? これって、説教?」
「いえ、私見です。これも私見ですが、あなたが生きていなければ、あなたの番が悲しむと思います」
灰色の青年が青ざめる。響が疑問を零す前に、横から生ぬるい液体をかけられた。
ジャージの青年はこちらを軽蔑するかのように見て、空になったコップを机に置いた。
「手が滑った。そのままじゃ働けないだろ。当直室に制服があるから着いてこい」
灰色の青年の呼吸のリズムが狂いだす。
「体調が悪いんですか?」
「久我に話しかけるな!」
ジャージの青年が声を荒らげる。
久我と呼ばれた灰色の青年は、寒さを温めるように、震えながら自分の胸を抱いた。
「久我さん、気分が悪いなら医務室へ運びます」
息を乱す久我の首筋や顔の血管が浮かびあがる。久我の呼気が速くなっていく。
「ゼア、ぼけっとしてないで、こいつをどこかへ連れてけよ!」
ゾフの横にいた青年が息をつく。
「そういうことだから」
ゼアは響まで歩いてくるとにこりともせず、ドアの外を促した。
「行こうか、新人君」
ゼアに先導されて部屋を出る。直前、響は目にしてしまった。久我の皮膚の盛り上がりが蠢き、灰色の瞳が獣のように細くなるのを。
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