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2・フォーカス(後)
ピピピピピ。
スマートフォンに設定したアラームの音がし、桐谷響は飛び起きた。
朝だ。
閉め切ったカーテンの奥に、日の光が見える。
「う……ん」
下から全神経を歓喜させる声がし、息を止める。
久我立夏が同じベッドの上で、今まさに目覚めようとしていた。
彼が着ている大きすぎるシャツは響のものだ。
頭が混乱する。
なにがどうなって、こうなっている?
額に手を当て、記憶を遡る。
昨日、百合をゾフに託し、操られていた人たちを病院へ届けたあと、響たちは解散になった。帰ってもいいと言われたのに、久我は帰ろうとせず、響から離れなかった。
「どうしたんですか?」
夜のM署の前で、久我へと首を回す。
相手は俯きながら、響の制服の裾をそっと摘まんだ。
「俺はそんなに頼りないか?」
話に脈絡がなく、戸惑う。
「単独で行動をした。なんの相談もなく」
「それは、久我さんが頼りないからじゃありません」
久我の指に力がこめられる。
「俺の独断が不愉快だったなら謝ります」
「やめろ! 自分が信じて動いたことを簡単に謝るな!」
久我の怒声に、混乱する。
「幻滅しているのか、受け入れてくれているのか、俺はどうとればいいんですか?」
急に服を引っ張られ、体が前のめりになった。久我の顔が近づき、唇が触れようとする。そうなる前に、久我が「うっ!」と青ざめ、口を押えて項垂れた。
「俺の体はお前を受けつけることができない。同じように、組織にいる俺はお前の単独行動を受け入れられない。何が悪いとか、正しいとか、そういうんじゃない。俺が捨てられたオメガだから、お前が警察の人間だから、変えられないものがあるってことだ。だけど」
顔を上げた久我は瞳を涙で濡らしていた。
「どうしようもないよな? 思っちまったことは消せない。お前が自分だけで荻原百合に会いに行ったのには、お前なりの理由があったんだろ? その気持ちを否定する権利は、俺にはないよ」
久我は、響の単独行動への矛盾した感情を、具体的な例をあげて教えてくれたのだ。
そう、自分の感情と番契約をしていないアルファを拒む体のちぐはぐさを例え話にして。
久我は響のことを、運命の番だと気づくことができない。運命が手招きしてくれなくても、彼は響に興味を持ってくれた。
見逃したくなかった。久我が零してくれた未来への糸口を。
「俺たち、一緒にいませんか?」
響の提案に、久我が目を見開く。
「俺はまた、組織の足並みを乱すかもしれません」
「誰かに相談しろよ。俺が無理でも、ノアがいるだろ?」
「俺が単独で動く場合って、誰にも言わない方がいいと思うからする訳なんで、たぶん、相談するという選択肢がありません。そういう気持ちを、久我さんは肯定してくれるんですよね?」
久我が渋々頷く。
「一緒にいれば俺の行動パターンが掴めると思います。そうしたら、未然に防げるかも」
「単独行動を?」
「久我さんが考えている最悪の事態を、です」
久我が苦い顔をする。
「今回、もし、何も起こらなければ、久我さんは俺にこんな話をしなかったと思います。今回、命の危険があったから、あなたは俺を叱ってくれている。なので、根元に、仲間を失う恐怖を回避したい感情があるのだと解釈しました。だから」
一歩、久我へと歩を進める。
「一緒にいることが有益ではないですか?」
久我が響を見上げる。
「お前、卑怯だ」
「はい。久我さんを雁字搦めにしている自覚はあります」
どんな理由であれ、久我と共にいられることは、響にとって幸福だった。それに、過ごす時間が長くなれば、オメガ特有の周期にも出くわすだろう。久我の苦痛を完璧に癒せるとは思っていない。もしかしたら、傍にいることも叶わないかもしれない。それでも、何かしら役に立てる可能性はある。
「俺は、久我さんを愛していますから。必死なんです。こんなの、普通じゃないですよね?」
困ったように笑って、冗談っぽく言い、場を和まそうとしたのに、久我は沈んだ表情を返してきた。
「桐谷が言う普通が、誰の普通なのか、わからないけど、俺だって、誰かの普通からしたら外れていると思う」
毒気を抜かれる。
「久我さんは普通ですよ」
どこが、と久我が苦笑する。
「キスすらできないオメガなのに、アルファといようとする奴なんて、普通じゃないよ」
そうなのか? でも、久我が言うなら、普通じゃないのかもしれない。だったら、普通ではないことが愛おしい。久我が普通じゃないことに感謝さえしてしまう。
「キスはできますよ」
響は久我の右手をとり、その甲に唇をよせた。
「吐きそう?」
久我が首を横に振る。
響は自然と笑んでいた。
「ね? どこにしたって敬愛の意味は変わりません。俺はあなたに触れられるだけで幸せです。でも、キスは、お互いが許し合わなければ、してはいけない行為です」
言いながら、久我の手の甲をハンカチで拭った。
「ねえ、久我さん。いつか、許して」
久我は何も言わなかった。
それから二人で響が借りるマンションへと帰り、軽食を採って、それぞれ別々にシャワーを浴びた。
脱いだ二人分の衣類を洗濯し、久我には響のシャツとハーフパンツを身に着けてもらった。濡れた衣類は風呂場に久我と干した。休んでいてほしかったのだが、久我はやると言って聞かなかった。
浴室乾燥のスイッチをオンにし、さあ、眠ろうとなって、響はベッドを久我に譲ろうとした。が、相手は響をベッドに引き上げ、二人で眠ることになったのだ。
そうだった、と日差しの届かないベッドの上で、響は久我を見つめる。昨日は疲れで実感が乏しかったが、意識がはっきりとしている今、久我が自室に存在することに、そわそわ、ドキドキする。
シャツが大きくて、鎖骨が覗いている。それだけでダメだった。ベッドから下りようとし、腕を掴まれる。
「どこへ行く?」
「おはようございます」
「質問に答えろ」
「トイレです」
もそりと久我が起き上がり、床に素足をつける。
「どこへ?」
「便所に行くんだろ?」
「ついてくる気ですか?」
久我と距離を持って、疼きを収めようとしていたのに。
「やましいことがあるのか? だったら尚更だ」
あるからこそ言い返せない。
「ドアの前までですよ」
久我がスマホを持つ。
「三分」
「え?」
「三分で出てこなかったら、ドアを蹴り開ける」
いくら好きな人を思っても、三分は無理だ。
「せめて二十分」
「長い。腹の調子でも悪いのか? 胃腸薬は? 持ってんのか?」
白いシャツから素肌が露わになっていて、響は目を覆った。
「持っていません。持っていませんけど、わかりました。少し待ってください」
響は脳内で数学の問題を自作しては解いた。
数分後、深く息をつく。
こんな形で、性欲の処理をする日が来るとは、思いもよらなかった。
「とにかく、服、着てください」
「ちゃんと着てるだろ」
心外だと言わんばかりだ。
「そうですね。すみません。服、乾いていると思うので、持ってきます」
「便所は?」
「もう大丈夫です」
「ふうん。じゃあ、ここでゆっくりしてろ。服は俺が持ってくる」
意気揚々と浴室へ行く久我を見送る。
その背中が愛しかった。
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