1・フォーカス(前)

2/18
前へ
/32ページ
次へ
 当直室には質素な二段ベッドと小さな冷蔵庫があった。ゼアが備え付けのクローゼットから制服を取り出そうとする。響はそれを断った。ジャージの男にかけられたコーヒーは背広を濡らしただけで、スラックスもシャツも無事だったからだ。 「わかったと思うけど、立夏(りつか)に対して番って言葉はタブーだから」 「りつ、か?」 「新人君が絡んだ相手。久我立夏」  名前を脳に叩きこむ。そんなことしなくとも覚えられるのに。 「久我さんと(つがい)の方との間に、何があったんですか?」  踏み込みすぎた。胸の内で舌打ちをする。  ゼアは首を(かし)げた。 「気になる? 会ったばかりの相手のことが。それとも、他人の不幸は蜜の味って感じの人?」  挑発だと冷静に判断できた。久我は番との間に不幸なことがあったのだろう。初めに思いつくのは番の死だ。しかし、死による番の強制解除がなされていたなら、久我は響に反応するだろう。心が弱っていたとしても、無意識にフェロモンを放つのだ。そうならなかったのは、久我の番が生存しているからだ。 「久我さんは俺の」  運命の番だという言葉を飲み込む。 「瞳が綺麗だと思ったんです」  ゼアが首を戻す。こちらの話を聞いてくれるようだ。 「一目惚れしました」  表情を崩さずに伝える。  ゼアは瞬きすらしなかった。 「誰に? 俺に?」 「久我さんにです」 「……へえ」  ゼアは愉快気だ。 「君が運命の輪ってわけ」 「タロット占いですか?」 「そう。桐谷君は立夏の宿命に関わってくる重要人物だと俺はみた」  良くも悪くも、と付け加えられる。 「俺ができる限り良い方へ行動できるよう、教えてくれませんか。久我さんのこと」  ゼアが唇を伸ばす。 「響は人間にしては頭がいいね。本心を隠しながら取引きをする。さっきからずっとそう。笑顔で嘘を吐けるタイプだ」  自分は人間より知能指数が高いとでも言いたいのか。同じ人間のくせに。 ゼアの上からの物言いにカチンときた分、響は微笑んだ。 「そう、嘘でもいい。人間は協力することで繁栄してきた。不躾な本音より、潤滑剤になる笑顔の方が有益だ」  ゼアが息をつく。それが意識を切り替えるスイッチなのだろう。 「立夏は恋人のアルファから番の強制解除を一方的にされたんだ」 「え?」  こちらの動揺に食いついたのか、それとも、深い意図はないのか、ゼアは口角を上げた。 「別に好きな人ができたからって理由で」
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加