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当直室には質素な二段ベッドと小さな冷蔵庫があった。ゼアが備え付けのクローゼットから制服を取り出そうとする。響はそれを断った。ジャージの男にかけられたコーヒーは背広を濡らしただけで、スラックスもシャツも無事だったからだ。
「わかったと思うけど、立夏に対して番って言葉はタブーだから」
「りつ、か?」
「新人君が絡んだ相手。久我立夏」
名前を脳に叩きこむ。そんなことしなくとも覚えられるのに。
「久我さんと番の方との間に、何があったんですか?」
踏み込みすぎた。胸の内で舌打ちをする。
ゼアは首を傾げた。
「気になる? 会ったばかりの相手のことが。それとも、他人の不幸は蜜の味って感じの人?」
挑発だと冷静に判断できた。久我は番との間に不幸なことがあったのだろう。初めに思いつくのは番の死だ。しかし、死による番の強制解除がなされていたなら、久我は響に反応するだろう。心が弱っていたとしても、無意識にフェロモンを放つのだ。そうならなかったのは、久我の番が生存しているからだ。
「久我さんは俺の」
運命の番だという言葉を飲み込む。
「瞳が綺麗だと思ったんです」
ゼアが首を戻す。こちらの話を聞いてくれるようだ。
「一目惚れしました」
表情を崩さずに伝える。
ゼアは瞬きすらしなかった。
「誰に? 俺に?」
「久我さんにです」
「……へえ」
ゼアは愉快気だ。
「君が運命の輪ってわけ」
「タロット占いですか?」
「そう。桐谷君は立夏の宿命に関わってくる重要人物だと俺はみた」
良くも悪くも、と付け加えられる。
「俺ができる限り良い方へ行動できるよう、教えてくれませんか。久我さんのこと」
ゼアが唇を伸ばす。
「響は人間にしては頭がいいね。本心を隠しながら取引きをする。さっきからずっとそう。笑顔で嘘を吐けるタイプだ」
自分は人間より知能指数が高いとでも言いたいのか。同じ人間のくせに。
ゼアの上からの物言いにカチンときた分、響は微笑んだ。
「そう、嘘でもいい。人間は協力することで繁栄してきた。不躾な本音より、潤滑剤になる笑顔の方が有益だ」
ゼアが息をつく。それが意識を切り替えるスイッチなのだろう。
「立夏は恋人のアルファから番の強制解除を一方的にされたんだ」
「え?」
こちらの動揺に食いついたのか、それとも、深い意図はないのか、ゼアは口角を上げた。
「別に好きな人ができたからって理由で」
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