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ゼアと待機部屋へ入ると、ジャージの男は新たなコーヒーを飲み、ゾフは資料を確認していた。久我が自席にいない。行方を聞こうと口を開いた時、ゼアが「あっち」と言いながら壁際へ首を振った。
久我は黒色のソファの上で何も被らない状態で眠っていた。丸まって寝息をたてている。響は寒そうにしていた久我を思い出した。
「すぐ戻ります」
「どうぞ」
ゼアは響の行動を把握できたのか、微笑んだ。
ジャージ男がゼアの変化に気づき、彼を見る。
響は自分の久我に対する情報が流れることを予想し、また、それで良いと思った。ゼアの挑発に乗った直後から覚悟はできていた。
響は当直室から毛布を手に取り、待機部屋へ帰って、久我にかけた。
オメガは男女問わず、身目がいい。久我の容姿もそうだ。傷ついてぼろぼろになっていても、良さは消えない。運命の番である響にとっては、久我を構成するすべてが愛おしい。
運命の番。
その言葉は意味を知る前から耳にしていた。第二の性を知ると同時に、運命の番の意味も知った。けれど、自分には縁のない話だと思った。なぜなら、運命の番かどうかの判断の仕方があまりにも不確かだったからだ。
運命の番は面識がなくとも、出会えばわかる。どれほど難しい書籍でも、結局のところ、それが相手を見極める答えだった。感覚的なことなら間違うこともあるだろう。運命の番など両想いの二人が見た幻想だ。そう思っていた。
だけど、久我に出会った今、積み上げてきた思考は気持ち良いほどあっけなく覆された。初対面であるにも関わらず、響の中で久我は最も大切な相手なのだ。
だからと言って、どれだけ深く想おうが、叶わない恋もある。アルファ側が番の強制解除をしたとして、あっちは新たなオメガと番うことができるが、オメガは違う。フェロモンは元番のアルファにしか効果を発揮しないし、たとえ誰かが自分を求めてきても体が拒否反応を示す。そもそも、強制解除をされた時点で、心身にかなりの負荷がかかっているはずだ。
生きていなければ番が悲しむ。久我にそう言ってしまったことを後悔していた。久我はギリギリの状態でここに存在しているのだ。だからこそ、彼は死を口にする。生きたいから逆の言葉を声に出し、体の外へ追い払う。班のメンバーが取り立てなかったのは、それが彼らにとって最善だからだろう。
自分は好感度マイナスからのスタートだ。犯した失態にため息をつく。
久我が呻いたのはその直後だった。瞼が押し上げられる。彼の瞳は元の愛らしい灰色だ。久我は寝ぼけたように響を見つめる。響は表情筋が緩まるのを止められない。逆に、久我は顔を歪めた。
「何言おうか考えてる?」
久我の声が刺々しい。それでさえ、細胞が歓喜する。
「え?」
「職務中に寝るなって。説教」
「いえ。ただ」
「ただ?」
久我がのそりと体を起こす。
「かわいいなとは思っています」
「はい?」
あからさまに相手は眉根に皺を寄せた。
響は自分の変化をガラス越しに観察していた。恋には駆け引き云々がいると友人が言っていた。無理だ、と胸の内で呟く。だって、言葉が勝手に出てくる。止めようとする隙を与えてくれない。自分の固定観念が狂い、情緒を整えられないのだろう。
「俺のこと、馬鹿にしてんの? お前、新卒だろ? 俺のが年上だ」
かわいいの概念に年は関係ない。
言ったら、眉間の皺が増えるのだろう。
本音が駄々洩れになってしまうなら、取り繕っても意味がない。響は観念した。
「馬鹿にしていませんよ」
膝を曲げ、久我の視線に目線を合わせる。
「久我さんが好きです。俺と結婚してくれませんか?」
間違えた。まずは結婚を前提に付き合ってくれませんかが妥当だった。
見ろ。久我が痛々しいものを目にしたような表情をしている。
「お前、俺のこと、何も知らないじゃん」
「これから徐々に知っていけたらと思っています」
久我が深く息を吐く。
「俺が言いたいのは、何も知らないのに、なんで好きって言えるのかってこと」
「顔と声と体のフォルムが好きです」
そっぽを向かれ、泣きそうな顔で笑われた。
「そっ、誘惑しちゃった? ごめんね。お前、アルファだもんな。ゾフから聞いてる。間違いが起こらないようにって。起こるわけないんだけどさ。そんでも、謝っとくわ。俺、いちおうアルファを誑かすオメガだかんな。存在自体が邪悪だわ。てなわけで」
久我がこちらへ視線を戻す。
「お前のは恋じゃない。本物の恋なら、こんな簡単に言えねえよ。それも、みんなの前でなんて」
「そうですね」
同意したのに、久我は見捨てられた猫のように寂し気な目をした。
「俺のは恋じゃないのかもしれません。友人が言っていた例え話から外れますから。恋は甘酸っぱくてやさしくて苦しいんでしょ? 俺は久我さんのすべてをこの世界から奪って独り占めしたいんです」
久我の瞳が見開かれる。
響は抱擁したい欲を抑え、その代わり、微笑んだ。
「ね? やさしくも甘酸っぱくもない。久我さんへの失態を嘆いても苦しむよりも、どうやったら振り向いてもらえるかって考えてしまう。恋かと思いましたが、違うのかもしれません。でも、まあ、恋かどうかが重要じゃなく、俺が久我さんとどうありたいかが重要なんで、俺がすることは変わらないです」
立ち上がり、改めて班の仲間に頭を下げた。
「長くなりましたが、ここまでを自己紹介として、さきほど班長の言葉を途中で聞かなかったこと、大目に見ていただけると助かります」
場が静まり返る。
少しして、誰かが遅いリズムで拍手をした。
頭を上げると、立ち上がるゾフが見えた。
「よろしくミスター桐谷。自己紹介がまだな班員もいたな」
ゾフの視線を受け、ゼアが響を向く。
「ゼアだ。ゾフの研究を手伝っている。よろしく」
ゼアがジャージの青年に首を振る。
相手はやる気なさげに響へと体を向けた。が、目線は響から外れている。
「ノア」
「それだけ?」
ゼアが苦笑する。
「言う必要ないだろ? どうせ数日で辞める」
「辞めませんよ。少なくとも数日では」
きょとんとした響に、ノアは舌打ちをした。きつい眼差しを突き刺してくる。
「恋バナで浮かれてる野郎なんて願い下げだ。そういう演出はアミューズメントパークか夜の店でやってくれ」
「恋じゃないって感じなんですが」
「とにかく!」
人差し指をさされる。
「俺が目障りなんですね」
微笑むとノアは口をぱくつかせた。
ゼアが腹を抱えて笑いをこらえている。
「ノアさんがそうだとしても、仕事は仕事なんで、割り切っていきましょう。お互い」
怒りを隠しきれないノアの肩を、ゼアが宥めるように軽く叩いた。
「まあまあ。あとであま~いココアでもいれてあげるからさ。ここは抑えてよ」
ノアが自席につき、足と腕を組む。
ゼアはノアに微笑み、それから響の背後へと目をやった。
響が振り向くと、久我はソファから腰を上げた。
「久我立夏。オルタ処理とオルタ憑きの保護を主に担当している」
「桐谷君には久我君とノアと共に行動してもらう。早速だが、一件、刑事課から依頼が回ってきている」
ノアが首の骨を鳴らしながら椅子から乱暴に立ち上がる。ゾフは席に座り、紙を捲った。
久我の手が背中に触れられる。その感触に細胞が興奮する。
「ほら。ノアにでかい口たたくなら、ちゃんとしろ」
久我から小声で助言され、ちらりとノアを窺うと、彼は背中で腕を組み、ゾフからの指示を待っていた。響は素直に、その姿に倣った。横で久我が後ろで手を組む。ゾフはちらりと班員を見て、また用紙に目を移した。
「事案について共有する。昨日、午後十時半、I区二丁目のRというコンビニで髪の長い女が単独で入店。店内にいたY高等学校の男子生徒を突如襲い、その後、逃亡。男子生徒は女との接触をたとうとした際、相手が暴れたことにより、肩、胸、および腕に軽い打撲」
Y高等学校は響が卒業した学校だ。表情を動かしていないのに、なぜか久我がこちらへと首を曲げてきた。微笑むと、すぐさま視線を逸らされる。
「男子生徒の証言では、彼女は自分を誰かと間違えたようだということだ。女の様子が定まらなかったという理由で、事案が回ってきた。次の被害者が出る前に女を見つけ、オルタ憑きか否かを確認する。以上」
久我とノアが足を揃え、敬礼する。遅れて、響も手を額に当てた。
ゾフがゼアと話し始める。二人の距離は適切なのに、響は違和感を覚えた。
「あの」
久我に声をかける。
「なに?」
「班長とゼアさんはどういう」
言いかけ、背中に軽い衝撃を受けて口を閉じた。
ノアが足を上げた状態で半眼を向けてくる。
「現場へ行く前に装備を整える。着いてこい。俺が直々に面倒をみてやる」
ノアはフンッと鼻を鳴らし、待機部屋から去っていった。
「背広、貸せ」
久我に言われ、濡れたそれを脱いだ。彼は背広を受け取り、自分の椅子にかけた。
「クリーニング代、ゾフさんに請求しとけ。名目は新人歓迎会の贈り物だ」
久我に背中をそっと押される。
息をついて待機部屋を出た。
「なにか不満でもあんの?」
久我は他人の動向に敏感だ。
「気持ちを落ち着かせるための呼吸法です」
「ふうん。まあ、ノアにあんなことされて良い気分な訳ないよな」
ノアからの蹴りは痛くなかった。それより問題なのは久我から触れられることだ。
あなたが触れてくるから性的な感情を押し殺しているんです。
響は心の中で反論した。
久我に連れられ、保管庫へ入る。中央に大きな机があり、壁に設置されたスチール製の棚にいくつもの武器や防具が裸の状態で並べられている。
ノアが棚からナイフを吟味している。
「お前、戦闘経験は?」
「実践はありません。警察学校で剣道と柔道の試合はしましたが」
「んじゃ、距離があった方が無難か。拳銃の訓練はしたんだろ?」
「はい」
馬鹿にされないのか。
意外に思っていると、久我が小さく首をノアへと振る。ジャージ男の傍へ行けとのお達しだ。響は言われたままノアの横へ移動する。
「スナイパーライフルの自信は?」
「ないです」
「じゃあ、こっちだな」
ピストルを二丁渡される。
予想に反して軽すぎた。
久我がすぐ傍まで来る。
「ゾフさんが開発した対オルタ用の特別製だ。シリンダーにこめるのも通常の弾丸じゃない」
ノアが鍵付きの弾丸ケースをテーブルへ置く。彼はネックホールからネックレスを引き出す。その先に黒色のカギがあり、箱の鍵穴とピタリ一致した。
ケースには光の当たり具合で虹色を宿す透明な弾丸があった。
「人間がくらっても悪くて気を失うくらいだが、オルタにとっては猛毒だ」
ノアに促され、響はピストルに弾丸をこめた。
「切らすと肉弾戦にもちこむ必要が出てくる。俺たちの敵はあくまでオルタだ。人間を傷つけることは許されない」
久我が弾帯ベルトをテーブルへ置く。
響は弾帯に弾丸を差し込み、腰に巻いた。
ここまで、ノアはさきほどとは打って変わって丁寧だ。響を辞めさせるために冷たく振る舞うのだと思っていた。
「何だ? 言いたいことがあるなら言え」
「やさしくしてくれるんだなって」
「は? 仕事のノウハウを教えてるだけだぞ」
「見て覚えろって言われるのかと思いました」
「見て覚えられないこともあるだろ。こんなんでやさしいって、お前、今までどんな奴らと一緒にいたんだよ」
脳裏を駆け巡ったのは仲の良い友だちと家族と、知り合った人たちだった。彼らの顔は笑っているのになぜか息が詰まる。
ノアは舌打ちをし、あからさまに不機嫌になった。
「俺はやさしくない。きっちり教えてんのは仕事ん時に迷惑をかけられたくないからだ。お前の退職理由が、俺らの態度のせいだって微塵も言わせないためだ! わかったか?」
「……わかりました」
言いながら、響は視線を久我へと外した。久我は棚から脛あてと拳法グローブを手にし、身に着けている。彼は響と違い、戦闘に慣れ、肉弾戦を想定しているのだ。複雑な感情が渦巻く。ノアはそんな響を横目に、ナイフホルダーを太ももに二つ巻きつけ、銀色のナイフを差し込んだ。
「ノア」
久我がノアにキャンディーを差し出す。
ノアは優しく微笑み、それを受け取った。
「サンキュ」
ノアはキャンディーを口に含むとゴミを丸めてジャージのポケットへ入れた。
ノアと久我の距離感にズキリと胸が痛む。彼らの間には響が踏み込めない親密さがあった。
仕方がない。彼らが共に過ごした時間は自分よりも多いのだから。
彼らのことも、オルタへのことも、これから知っていくのだ。
響は心が暴れ出さないよう息を深く長く吐き出し、そして、ゆっくりと吸った。
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