1・フォーカス(前)

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 頭に冷たい何かが当たる。背後からノアの溜息が聞こえた。 「なに、二人でしけた面してんだ?」  ノアはペットボトルを久我に手渡し、 「こいつ、借りるぞ」  と響を見た。  久我は頷いてペットボトルを開けようとし、なかなかうまくキャップを回せないでいた。手助けしようとした響の横を、ノアが素早く通り過ぎ、久我のペットボトルのキャップを回す。  ノアは響を振り返り、着いてくるように言った。響は久我がペットボトルを口元で傾けるのを確認してからノアの後を追った。  後ろ手にノアが折り曲げた紙を差し出してくる。 「加害者の特徴だ。頭に入れとけ」 「はい」  紙を開く。綺麗な文字が読みやすく配置されていた。響は画像を覚える要領で文字の内容を記憶しようとし、ある一点に心をざわつかせた。  加害者の発言「かいちょう」。  五年前の百合の声が蘇る。 「おい」  ノアの声に過去から現実へと引き戻される。 「覚えたか?」 「はい」 「じゃ、メモ、もらっとく」  返すと相手はぐしゃりと紙を潰し、上着のポケットへ入れてチャックを閉めた。 「ノアさん」 「なんだ?」  加害者の発言以外は、腰まである黒髪。茶色いコート。身長百六十くらい。色白。年齢二十歳くらい。適合する人間は一人や二人ではないだろう。そう、百合ではない可能性だって大いにある。 「いえ。……その」 「うん」  ノアがこちらへと体を向ける。  この人は俺の話を真剣に聞く気だ。  どうしてだろう。冷汗をかく。 「犯行当時の被害者の服装は制服であっていますか?」 「ああ」 「俺、被害者と同じ高校出身なんです」 「へえ」 「被害者は間違えられたって言っていましたよね?」 「そうだな」  響は口をつぐんだ。もしも、加害者が百合であるなら、ターゲットは響だろう。確証はないが、被害者の恰好が判断材料になる。本当に百合であったならば、彼女を追い詰めるような真似はしたくない。 「どうした?」 「加害者のターゲットは男だと思いますか?」  ノアは何気ない素振りを装い、こちらの真意を探るように眼差しを強めてきた。 「被害者は高校指定の服を着ていた。短髪だったし、骨格も女とは異なる。推測の域は出ないが、男だと仮定してもいいだろうな」 「わかりました」  ノアは何も言わずに並べられた雑誌を手にした。本棚の置かれた壁は肩より上がガラス張りになっていて、そこから外の景色を見ることができた。ノアは雑誌を開きはしたが、目は行きかう外の人々に向けられていた。響も適当に週刊誌を手にし、ノアに倣った。  さまざまな年齢の人々が来ては去っていく。時折、その中に瞳の細い人が幾人かいた。彼らは暴れることなく、社会に溶け込んでいる。  幼い日に、獣のような細い瞳のことを両親たちに話したことがあった。両親は響の頭がおかしくなったのではないかと訝った。そもそも両親は、アルファであるのに秀でたものがない響のことで気をもんでいた。  兄と妹はこんなに優秀なのに、この子は違う。私たちがこの子の歩む道を整えてあげなければ。  そのような気持ちを持っていたところで、響から獣のような瞳の話を聞き、彼らは響を矯正しようとした。正しい道に進めるように、と。  この子をまともにしてあげなければ。私たちがいなくなったあと、一人で生きていけるようにしてあげなければ。  小学校にあがる前、響は山奥の矯正施設に通っていた。何年も前のことなので、どのような治療を受けていたかまでは覚えていない。だが、今、自分が働いて食べていけるようになれたのは、あの時、両親に時間と金をかけてもらったからだ。  自分は普通ではないから普通になるために周りを観察し、学び、そこでの普通を遂行しなければいけない。  普通の人たちが構成している世界で生きるためには、異質であることは危険でしかないのだ。  獣のように細い瞳を持つ人など、本当はいないのだ。だから、誰も言わないし気にしない。響が誰かにかまってもらいたいから、脳が話の話題を作るために見せているだけの世界。  なんて我儘で利己的で醜い世界だろう。 「おい」  ノアだ。 「はい」 「お前、キャンディーは好きか?」 「嫌いではないです」 「んじゃ、これ」  とジャージのポケットから飴を取り出す。  彼はそれを不機嫌な表情で響に突きつけた。 「……えっと?」 「お前らは甘いもん食うと脳でドーパミンってのが出て、幸せを感じるんだろ?」  お前ら? 「キャンディーが嫌いじゃないなら舐めとけ」 「俺が不幸せに見えたんですね?」 「お前はいちいち突っかかってくんだな。いいから、口に入れろよ」  ノアが頬を引きつらせる。突っかかっているつもりはなかった。会話は難解だな。  響は礼を言い、素直に飴を舌の上にのせた。 「舐めたな」  途端、ノアが勝ち誇ったように笑んだ。 「聞け。そいつにはちょっとした毒を入れてある」  市販のパイナップル飴は封も開いていなかったはずだが、どうやって入れたのだ。 「毒の症状を聞いてびびれよ。これからお前は嫌なことがあったり、気分が駄々下がりの時、俺に話したくなるんだ」  どうだ、怖いだろ、とノアは悪戯気に笑った。  それはつまり相談しろということか。言いかけた言葉を口に出さず、ノアの次の出方を待った。  彼は仕方がないなあという風に笑んだ。 「お前のせいじゃない。弱音を零すのも、愚痴を吐くのも、俺の入れた毒のせいだ。毒入りキャンディーを与えた犯人として責任はとってやる。だから、安心して仕事をしろ。ぼうっとしてたら、オルタ憑きにやられかねないぞ」  ぶっきらぼうだが、この人は本当に。 「やさしい」  思わず言ってしまい、口を押える。たぶん、ノアはそう言われることを嫌っている。  予想に反して、相手はむず痒いような表情をし、それから不器用に笑んだ。 「どうも」  そんなことを言われるとは思わず、驚いた。  ノアが唇を伸ばす。 「お前に俺の考えを受け入れさせるんだ。俺もお前の感情を受け入れてやるよ。じゃなきゃフェアーじゃない。俺も久我も過去のお前を知らん。だったら今までと一緒じゃなくったっていいんじゃねえの?」  カチャリと脳の奥で鍵が開く音がした。
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