プロローグ

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プロローグ

 ベッドの上で、桐谷響は携帯端末を操作していた。ホームセンターで割引されていたからという理由で買ったベッドに特段の思い入れはない。ただ、サイズがマンションの寝室に合えばそれでよかった。ベッドに関心はなかったが、2SLD、オートロックを借りたのには理由があった。  単身であること。寝室と活動する部屋を分けたかったこと。それと、他人が直接玄関前に来ない状況を作ること。オートロックは煩わしい勧誘や悪意のある接触から、響を守ってくれるだろう。もちろん、完璧ではないだろうが、それでも、一つ何かを挟まなければマンション内に入ってこられないという構造は魅力があった。  他者から恨まれるような生き方はしてきていないつもりではあるが、自分の行動や言動で不快に思う人はゼロではないだろう。これから先は、その人数が確実に増えるような気がする。そういう職を選んだ自覚があった。  昨日、響は警察学校を卒業し、N市にあるM警察署に配属された。署長達への挨拶などは卒業したその日に済ませてある。今日からは任務に就く。  携帯端末には母や友人からの出社を鼓舞するメッセージが届いていた。 ――今日から仕事ですね。お願いだから、悪い癖はやめなさいね。あなたの未来に期待しています。 ――お前ならできるよ。元が俺たちと違うからな。 ――アルファ様も警察かあ。大学中退してまで入ったんだもんな。俺には理解できんけど、やりたかったことしてるアルファ様はすごいわ。普通はできん。 ――馴染めなかったら辞めたら良いよ。桐谷ならすぐ次が見つかる。  読み終えたあと、なぜか苦笑していた。母の言葉には納得し、友人の言葉に嫌悪感を抱いてはいない。だから、自分の顔の筋肉の動きを不思議に思った。  けれど、すぐさま実社会で起こっている事件を思い出し、感情に蓋をした。  荻原百合がオルタに憑かれてから、およそ五年が経つ。警察の配属希望先を一般ではなく、オルタ専属班を選択したのは、百合のことがあったからだった。  警察のオルタ専属班はオルタ憑きへの逮捕権、犯罪の抑制、そして、治療までもを職務としている。謎が多いオルタに近づくため、班に研究者がいることが特徴だ。響の目的はその人物にこそあった。  百合はオルタに憑かれてから、家族ともどもどこかへ消えてしまった。彼女は罪を犯してはいない。オルタに操作されている中、自我を取り戻し、身を引いたからだ。百合が話さなければ、彼女が成そうとしていたことは、響と百合だけの間でしか共有されない。百合が家族にどこまで伝えたのかはわからないが、彼女がオルタに憑かれたという噂はいっこうに聞こえてはこなかった。  人々はオルタ憑きを恐れている。異変があれば、警察に通報されるか、どこそこの人間が不気味だとネットに拡散される。そんな時代に、百合の情報がまったくないのは奇妙であり、それこそが、彼女の現状が良いものではないことを物語っていた。  オルタに憑かれた百合を前にしたのは、響が十六の時だ。圧倒され、何もできなかった。百合はオルタの介入に苦しみながらも、泣きながら響に謝り続けた。  あの日の百合は、もう目の前にいないのに、その泣き顔も声も響に絡みつき離れようとしない。百合は自分がベータであることに悩み、そして、アルファである響を自分より上だと感じていたようだった。  アルファだからと言って、何でもできるわけではない。少なくとも、響は天才ではない。見たままを模写できるような才能もなければ、フルコースを作れるような料理の腕前もない。勉強も、テキストを何度も読み、暗記にも時間をかけた。スポーツの類については意識的に遠ざけていた。響がどちらかと言えば、運動より読書を好む傾向にあることもさることながら、アルファであることが知られると、最後の要としての役割を担わされるからだ。その期待に応えられなければ、失望される。  自分が意図しようがしまいが、それが第二の性と呼ばれる区分だ。一般的な違いを説明するならば、頭脳、身体能力、容姿にとぶと言われるアルファ、発情期を持つオメガと第二の性により縛りが少ないであろうベータ、だろうか。オルタはどのタイプの人間にもとりつく。  オルタ憑きによる犯罪は初め、狂人によるものだと仮定された。記憶が曖昧な加害者がいれば、虚言癖がそうさせるのだと、マスメディアもソーシャルネットワークも書き立てた。オルタ憑きに必要なのは攻める言葉ではなく、適切な治療であったにも関わらず。  響がこの話題に言及すると大半の人間は顔を歪めた。オルタ憑きに有効な治療があると世間が認知したのが、ここ最近のことだから、仕方がないだろうと言わんばかりに。  オルタを発見し、オルタ憑きの治療へと乗り出したのは、西の大陸に住んでいた獣人だった。彼はオルタに関する研究について、あまたの国からオファーを受け、なぜか響の故郷である島国と手を結んだ。  大国へ行けば潤沢な研究費をもらえただろうが、資源の乏しい日本では出せる金額にも限度がある。契約書等に明確な金額の記載がなくとも、そんなことわかりきっている。研究費は性能の良い機材の数に直結する。彼が大国の研究所に入らなかったことで、オルタの研究は数十年遅れたと世界は嘆いた。響も頷ける反応だった。だが、それ以上に、彼が日本にいることをありがたく思った。彼がいれば、百合に適切な治療を受けさせてあげられる確率がぐんと上がる。自分が専属班に入って百合の居場所を探り、日本びいきな獣人の、完成度を高めた治療を提案する。それがこの職に就こうと思った、響の根っこにある志望動機だった。  なぞの多い獣人の名はゾフ・アルカディア。彼は響が配属されるM警察署のオルタ専属班に席を置いている。
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