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しばらくキスを続け、その後マコトが葵を優しく抱きしめた。
「ずっと…葵を抱きしめたかった…」
「……信じられない…。阿部マコトが…真言君…だったなんて…。フロントで声をかけられた時から、そうだっら良いのにって…思ってたけど…。でも、あり得ないと思ってた…」
マコトの胸に包まれ、葵が答えた。
「葵…、死んだって思ってたから…。もう会えないと思ってた…」
「私が…死んだ?」
マコトの言葉が引っ掛った。
「うん…。葵の調査。その調査報告がさ…、葵、死んだって…」
「何それ…。私、一回も死んだ事無いんだけど」
「ははっ…。一回も死んだ事無いかぁ…。俺にとったら嬉し過ぎて死にそうだよ…。何であの時…何の疑いも持たなかったんだろう…」
「どういう事…?」
カツッカツッカツッカツッ…
地下駐車場にヒールの音が聞こえ始めた。
マコトがハッと顔を上げた。
「茜だっ…」
「茜?」
マコトの胸の中から葵がマコトを見上げた。
シャープな輪郭で遠くを見つめる顔が美しかった。
「うん。俺のマネージャー。すげぇうるせぇヤツなの」
そう言っている間にもヒールの音が間近になった。
しかしマコトは葵を抱き締めたま離そうとしない。
「真言くっ…、…阿部さんっ…」
どちらの名前で呼べば良いのか。
「マコト。こんな所にいたの?」
「知ってるくせに。惚けんじゃねぇよ…」
「ふんっ。まぁ、良いわ。そろそろ帰るわよ。その先生を離してあげたら?」
フロントでマコトと一緒にいた女性だった。
今日も黒いスーツを着ていた。
葵より少し背が高く、小柄で見るからに気の強そうな顔をしている。
黒い髪をきっちりと結い上げ、化粧も濃く、口紅がこの薄暗さでも赤いのが分かる程だ。
年齢は30代後半辺りだろう。
「先生もこんな所、同僚に見られでもしたらマズイんじゃないかしら?」
一切表情を変えずに真顔で葵を見てきた。
「……すいません…」
「何で葵が謝るんだよっ…」
マコトがギュッと葵を強く抱き締め直す。
「何寝ぼけた事言ってるのよ。この人は桜井葵さんじゃ無いでしょ。彼女は死んだのよ。いい加減現実を受け入れなさいよ」
「その情報が嘘だったんだよ。葵は生きてた。今、俺の目の前にいる」
茜の右の眉がピクッと上がり、目を細めた。
「どういう事…?」
「あの…、私、今は川原葵ですが、小学五年生までは…、桜井葵と言う名前でした。そして、城之内真言君と五年間、仲良くしてて…、ピアノも教えて貰ったりして…。でも、真言君は卒業間際にお母さんとアメリカに行っちゃったんです…」
葵の言葉に茜の目が大きく開いた。
「何故…それを…」
「葵本人だからだよっ。俺はあのババァにまんまと騙され続けてたんだっ…。クソッ…」
「騙され続けたって?」
「俺の母親だよ。アイツに、葵の調査したから報告書を見てくれって言われて…見せられたのが…、葵とおじさんとおばさんが火災で死んだって書かれたヤツだった…。あのババァ、調査書を偽造したんだよっ…」
葵の胸が苦しくなった。
「それ…、半分は…本当だよ…。お父さんとお母さん…、本当に火災で死んじゃったの…」
「えっ…?」
マコトの鼓動が速くなったのが分かった。
表情も強張っていく。
「真言君がアメリカに行って…一週間もしないうちに…。ストーブの消し忘れが原因かもしれないけど、お父さんとお母さんの寝室から深夜出火して…。私は、助かったけど…一酸化炭素中毒で半月間意識戻らなかった。意識が戻った時には…お父さんもお母さんもお骨になってた…」
「嘘だろっ…。全部が偽造じゃ…無いのかよっ…」
「そんな事があったのね…。にわかに信じ難いけど、あなたが本物の桜井葵さんである事は間違い無いようね」
茜が静かに言い、腕組みをした。
「じゃぁ…、苗字が違うのは…」
「お母さんの妹夫婦の養子になって、育ててもらったの。だから川原になったんだよ。おばさんたちには子供がいなかったから、とても良くして貰って、真言君に貰った楽譜とCDも買い直してくれたし、ピアノも買ってくれて、真言君と約束したアヴェ・マリア、何とか弾けるようにしたんだから…」
「葵っ…」
マコトが葵を愛おしく抱き締めた。
「俺との約束、覚えててくれたの?」
「うん。いつ真言君と再会出来ても大丈夫な様に、アヴェ・マリアだけは…時間見つけて今でも練習してる」
「アヴェ・マリア…。なるほどね。それでアヴェ・マリアだったのね…」
茜が軽く鼻で笑った。
その姿に葵はマコトを見上げた。
「俺がさ、今の事務所に送った動画、アヴェ・マリアの弾き語りだったんだよ。高校二年の時に音楽室で一回だけ友達の前で演奏したの。それを友達が動画撮ってたみたいでさ。勝手に事務所に俺の弾き語り動画を送っちゃったワケ」
葵はマコトのプロフィールを思い出した。
「アヴェ・マリアって…シューベルトが叙事詩に付曲したものでしょ?」
「うん。まぁ、歌詞付きのアヴェ・マリアもあるけど、俺が独学でドイツ語の叙事詩を翻訳して、あえて英語の歌詞付けて歌ってみたんだ」
「凄い…」
「それにあのリストの狂気じみた編曲。あれに歌付けるの、結構大変だったよ〜っ…」
「えっ!あの曲を弾きながら歌うのっ?」
「ちょっと。私を無視しないでくれるかしら」
マコトと葵が興奮気味に会話している中、茜が割って入った。
「うるせぇっ!」
「すいません…」
二人は同時に茜に向かって言った。
「久しぶりに再会して嬉しいのは分かるけど、ここじゃマズイわ。それに、あんたには神谷瑠奈がいるでしょ。それはどうするつもりなのよ?」
「別れるっ」
「はぁ…。どうするにせよ、とにかく、ここから場所を変えなくちゃ。葵さん。あなた、この後時間ある?」
「えっ…。あ…はい…」
神谷瑠奈の名前が出てきて葵は動揺した。
阿部マコトが女優の神谷瑠奈と半同棲生活をしている事は世間では有名だった。
結婚間近とまで噂されているほどだ。
それなのに…、私は真言君と…いきなりキスをしちゃったんだ…
罪悪感と、神谷瑠奈の存在の悔しさが同時に葵を襲う。
なんだろう…
このモヤモヤ…
葵はそんな気持ちのまま、車をそのまま置いて茜の運転する車でこっそりマコトの事務所に移動した。
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