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「やっぱり阿部マコトって、イケメンだよねぇ〜」
夕食を終えて食器を下げていた葵の叔母がテレビで放送されている音楽番組を観て立ち止まった。
「そうだよねぇ。背も高くてイケメンで、このピアノの演奏力に歌唱力…。羨ましいよね…。それに比べて私のピアノは…」
葵もテレビを観てテーブルを拭く手が止まった。
そしてため息をつく。
川原葵。
25歳。
神奈川で両親と三人家族で暮らしていたが、小学五年生の時に火災で両親を亡くし、一人だけ助かった葵は、東京に住む母方の妹夫婦に養子として引き取られ、現在は都内の教習所で教習指導員として勤務している。
「葵のピアノだって素敵よ。私は葵のピアノ大好きだよ」
叔母が微笑んで葵を見た。
「ありがとう、おばさん…」
葵は照れながらテーブルを拭き始めた。
「それで、その阿部マコトが葵の教習所に通い始めるのって、明日って言ってなかったか?」
葵の叔父がソファーに座って葵に振り向いた。
「うん。でも、VIPは私なんかが教習出来る訳じゃないから、関係ないかな…」
「でも阿部マコトに会えるかもしれないでしょ?」
「おばさんまで杏奈と同じ事言わないでよ〜っ…」
葵は苦笑いした。
翌日。
7月下旬の朝は既に蒸し暑かった。
葵の勤める教習所は、自宅から車で30分程の場所にある。
去年ローンを組んで車を買い、夢の車通勤を実現させた。
教習所に着き、更衣室で制服に着替える。
すると更衣室に同期の佐々木杏奈がやって来た。
「葵っ、おはよーっ!今日、ついにマコト来るねぇっ」
杏奈が嬉しそうに着替え始めた。
「おはよう杏奈。私達には関係無いだろうけどねぇ」
葵はやや小さめの身長で全体的に小柄だ。
少し丸顔で二重の目がぱっちりとして目尻は下がり気味。
鼻は高く無く、小さな潤った唇が少し幼く見せる。
肩の下まであるサラサラの黒い髪を一つに結び、前髪は眉毛に掛かる辺りでぱっつんと真っ直ぐに揃えられている。
真面目そうな印象だ。
それとは対照的に、杏奈は葵よりだいぶ背が高く、ほっそりとした体型で顔も小さく面長。
キリッとした細い目をし、鼻筋が通っていて、ふっくらした唇。
髪も明るい茶系で、ボブの長さの髪はゆるくウェーブが掛かっている。
その髪を右耳にだけかけていた。
活発でお洒落な印象だ。
「どうせ係長クラスの指導員しか担当できないんでしょっ!つまんなぁ〜いっ…」
杏奈が頬を膨らませてムスッとした。
「うふふ…。でも、生の阿部マコトが見れるかもしれないし、卒業するまでは楽しみが出来るんじゃない?」
スラックスのベルトに黒いポーチを通し、葵は姿見で制服の乱れを確認する。
「そうだねぇ…。じゃ、生マコト見れるの期待して、今日の教習も頑張ろっ」
杏奈は阿部マコトのファンだった。
阿部マコトがこの教習所に入校すると知ってから今日をずっと楽しみにしていた。
葵の教習所は都内で一番大きな教習コースを有し、指導員の数もかなり多い。
他の教習所と違うところが、芸能人や有名人などが免許を取りやすいVIPコースと言うものを設けていることだ。
教習料金はそれなりに高いが、全てにおいて優先される。
待合室も個室で、指導員もベテランのみが担当し多くの芸能人たちがこの教習所のVIPコースで免許を取りに来る。
葵も何度か芸能人を教習所で見かけたことがあった。
阿部マコトはとても人気のあるピアノの弾き語り歌手で、免許更新期限を一年以上過ぎて免許失効してしまい、免許再取得となってしまったらしい。
葵にとって阿部マコトは、確かに魅力的な歌手だったが、教習所でたまに見かける芸能人の中の一人という程度だった。
教習前に行う朝礼でも阿部マコトの入校の事は校長から伝えられた。
やはり担当するのは係長以上のベテラン指導員のみだった。
しかし、この後、葵が驚く事が待ち受けていた。
阿部マコトが教習所に到着し、受付けを済ませた。
フロントの女性スタッフは芸能人への対応に慣れているが、今若い女性に人気の阿部マコトが目の前にいるという事だけあり、どのスタッフもソワソワしていた。
阿部マコトの身長は180cm以上はありそうだ。
肩幅は広く、ピアノを弾くために体を鍛えていると言うのは有名で、近くで見ると、筋肉質なのが服の上からでも分かるほどだった。
白いTシャツに濃紺のスキニーデニム。
袖から伸びる長い腕は筋肉の上から血管が浮き出て見えた。
脚も鍛えられているようで、とても形の良い脚はスラッとしている。
そして真っ白なブランドのスニーカー。
決してマッチョではなく、とにかく肉体が引き締まったスリムな体型だった。
本日の葵の教習は学科担当で、学科の教習を終えて指導員の控室に忘れ物を取りに戻ろうとしていた。
阿部マコトがそろそろ来る事は分かっていた。
しかし次の学科教習があるので急いで控室に向かう。
「葵っ?」
フロントの前を通った時、突然誰かに名前を呼ばれた。
反射的にその声がする方を振り返った。
「……ん?」
教習生は誰も葵を見ていない。
気のせいかと思い、また歩き出そうとした瞬間、視線を感じた。
「えっ?」
フロントにいた阿部マコトが葵を見ていた。
さすがに葵は驚き、そのまま固まってしまった。
「葵…?」
今度こそ、本当に阿部マコトが葵に向かって名前を呼んだ。
しかし何かを考えているかのように首を傾げている。
マコトはテレビで見るより小顔で顎がスリムだった。
色白で、二重の切れ長の目は良く見ると瞳が茶色い。
鼻も高くて薄い唇が色っぽい。
「あのっ…」
なぜマコトが葵を見て名前を呼んだのか分からなかった。
阿部マコトが葵を知っているはずがない。
「マコトっ。彼女は葵さんじゃないわ。何を言ってるのよっ」
マコトの隣に立っていた黒いスーツを着た女性がマコトに厳しい口調で注意する。
「いや…。すげぇ…似てたからさ…。つい…」
そう言いながら金髪の前髪をマコトが掻き上げた。
「えっ…。嘘っ…」
その仕草に葵は絶句した。
「早く部屋へ移動するわよっ」
黒いスーツを着た女性に連れられ、マコトがVIPルームへ移動し始めた。
その時、葵とすれ違う。
「川原葵さん…?」
すれ違う時に葵の名札を見て、マコトは葵の顔を見ながら呟き、通り過ぎて行った。
その顔は切なそうに見えた。
葵は一気に鼓動が速くなる。
芸能人に話しかけられたからではない。
小学五年生の時に離れ離れになって、それから今まで行方が分からなくて会えず、ずっと想い続けてきた男の子にマコトの仕草が似ていたからだ。
「真言…君…」
葵は一人立ち止まって呟いた。
マコトが通り過ぎた時、ほのかにレモングラスの匂いが香っていた。
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