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 美術室で三年二組の生徒たちが水彩画を描いている。黄色いバケツは今も昔も変わらない。冬の間は外でスケッチすることができないため、水彩であれば静物や自画像、名画の模写など、デザインであればレタリングが主である。三年二組はトウコが担任を受け持つクラスだった。国語や数学など、試験による採点で白黒つけられる科目であればよいのだが、特に美術という科目は担当する教師の裁量が大きい。芸術だから仕方がないのだけれど、その採点によって生徒たちの内申点に差が生じるのかと思えば心苦しい面もある。だから期末試験はできるだけ美術史を中心にテストを行う。絵の上手下手は仕方がない。絵を描くことへの姿勢だとか授業態度だとか、本来の芸術とは関係の無いところに子供たちの評価がある。美術はやはり生まれ持ったセンスだとトウコは思っている。皆が平等で同じ能力を持ち、努力によって得られる結果だけを評価できたなら、こんなに苦しむことはない。けれども現実は努力とは関係の無いところに存在している。努力は嘘をつかないという言葉はある意味本当だけれど、努力が必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。クラス担任として子供たちの進路指導をする中で、中学生にこの事実を伝えるべきか悩む。特に芸術に興味を持ち、将来芸術を仕事にしたいと思っている生徒に、この現実を伝えないのは教師として失格ではないかと思うのと同時に、若い才能の芽を摘んでしまうのではないかと心が痛む。この時期になると、いつも若かりし頃の自分とジュンのことを思い出す。もうとっくに一人の男性として愛してはいないのだけれど、時折ジュンの顔が脳裏を横切ることに何か不思議なものを感じる。胸の痛みというよりは、夕陽の中の長く伸びた影のようである。よく昔から、女性は新しい恋で過去の記憶を上書きし、男性は過去の恋を別名で保存し、いつまでも忘れないという。勿論個人差はあるのだけれど、トウコは自分が過去の恋を完全に清算できているのかわからなかった。でも今はジュンのこと以上に、担任を受け持つ生徒たちのことの方が大事だった。思春期の生徒の心細い心情に触れたりすると、胸が締め付けられる。そして生徒たちの人生の選択に関わることへの怖さも感じていた。自分は東京の美術大学へ進み、ジュンとの別れをきっかけに帰郷し教師の職に就いた。自分の能力を過信していつまでも芸術にしがみついていたなら、今、どうなっていただろうか。それに対してジュンは芸術にしがみつくこともできず、生き方を変更することもできなかった。人生の選択に正解など無いのかもしれない。どちらの人生が幸せだったかなど、現時点で答えが出せるはずもない。ただ、トウコは経験上、芸術の道に進むことの恐さを知っている。コンパスだけ持たされて、深い山の中を進むような感覚。地図など無い。コンパスは心の中にある。それは自分以外の全ての人間が逆方向を指し示そうとも、自分の中のコンパスを肯定できるだけの自信と、非常識さと運が必要だということである。トウコにはその全てが欠けていた。才能はスタートラインでしかない。持っていて当たり前の世界。だから逆に自分に早い段階で見切りをつけることができた。けれどもジュンは、自信過剰で非常識で、そして残念ながら運だけが欠けていた。生徒たちにどこまで話してあげるべきなのか、トウコは迷っていた。  授業を終え職員室に戻ると、隣の席に三年三組の担任をしているイシズカがいた。彼は数学の教師でトウコの二年先輩だった。大学は地元の国立大の教育学部で、高校はジュンと一緒だった。つまりジュンの一年先輩にあたる。 「キタムラ先生、先生のクラスのナカノ君は今回のテストも数学満点でした。彼なら一高行けるんじゃないですか」 「ええ、彼も、彼のご両親も一高への進学を希望されています」 「先生のクラスから一高に送り出せるなんて素晴らしいじゃないですか」 「そうですね、彼にはこのまま努力を続けてほしいと思っています。他の教科も優秀ですし」 「キタムラ先生、つかぬ事を聞きますが、先生はどうして美術教師に? いや、私としたことが、個人的なことを聞いてしまいました」  トウコが頬を緩めた。 「いいんですよ」  顔を真赤にしているイシズカを見て目を細めた。 「さあ、どうしてですかね、勉強より絵の方が好きでしたから」 「先生のように一高出身で美術専攻って珍しいなと思って」 「そうかもしれませんね、一応社会科も持ってはいるんですけど、専門が美術史だったもので」 「先生のように勉強も芸術もできるなんて羨ましい。私なんて数学と物理しか知りません。絵なんてまるっきし。昔、夏休みの課題で画用紙に電柱と雀だけ描いて提出したら、クラス中の笑い者になりましたから」  トウコが口元を抑えてクスクス笑う。 「絵心が無いと言うんですかね? 全くどう描いてよいのかわからないんですよ。何をどう描いてよいのか……。それに比べて数学は単純明快でした。まず正解が決まっているのがいい」 「そうですよね、絵なんて見る人によって評価が異なりますから」 「そう言って貰えると救われます。先生のように才能があって、勉強もよくできて、東京の大学にまで行かれている。憧れます。私なんて三高から地元の教育学部というお決まりのパターンで、気付いたらこの歳で中学の教師になっていました。失礼ですがキタムラ先生は独身でいらっしゃいますか?」 「ええ、それが何か?」 「いえ、すみません。プライベートなこと聞いてしまって、忘れて下さい」 「イシズカ先生も独身でいらっしゃるんですか?」 「はい、仕事一筋で来ましたから、気付いたらこの歳で。失礼だったら謝りますが、先生はお綺麗だからおモテになるのでしょう?」  トウコが口元を抑えながら微笑した。 「そんなことないですよ」  イシズカが話しかけようとした時、予備チャイムが鳴った。 「それでは授業がありますので」  職員室を出たところで溜息が出た。以前からイシズカの気持ちには気付いていた。でも今は、誰にも興味を抱くことができなかった。思い返せばイシズカの不器用さに表情が緩んだ。あの年齢で、あのアプローチは無いなと思うが、それはきっと本当にこれまで女性に慣れて来なかったからだろう。まるで高校生のような自信の無い表情、紅く染まった頬を見ればわかる。それに比べジュンの図々しさは何なのだろう。突然連絡してきたかと思えば、昨日は一日中車の運転をさせられた。考えれば考えるほど腹が立ってくる。ただ、トウコはイシズカのような誠実な男を、過去に知らないわけではなかった。  実はトウコは一度結婚に失敗している。大学を卒業し、ジュンと別れ、失意の中で盛岡に戻った後、しばらくジュンを忘れようと教員採用試験に気持ちを向けていた。初めて赴任した松園中学で知り合った同僚と恋に落ち結婚した。相手はジュンと真逆のような真っ直ぐな男で、結婚してしばらくは上手く行っていたが、束縛がきつく、元々自由が好きだったトウコは窮屈さを感じ始めた。互いに赴任先が変わり、すれ違いが多くなり別れた。子供を授かっていなかったので、互いに離婚に踏み切りやすかったのもある。離婚なんて呆気ないものだなと感じたのを覚えている。今となっては、好きで結婚したのかさえ思い出せない。ジュンとの別れが辛過ぎて、それを上書きするようにして次の恋を求めたのかもしれない。  女性は過去の恋を新しい恋で上書き保存できるというが、トウコの場合、上書きされてもなお浮かび上がってくる記憶がある。それほど以前はジュンのことが好きだった。けれども自分も四十の手前になり、バツイチでもあるし、それこそジュンへの拘りは無い。女一人で生きて行くのも悪くは無いし、途中で良い男が現れたら再婚したって構わない。ただジュン以上に刺激を与えてくれる誰かに出会うことなど考えられなかった。自分が高望みしている? しかし納得できない相手と結婚するくらいなら、このまま独身で両親の面倒を見ながら過ごすのも悪くないと思う。ジュンが今、自分に気持ちが無いことはわかっている。それがわかったからこそ、彼を迎えに行ったし、部屋探しにも付き合った。トウコにも意地がある。別に自分が望んで来てもらったわけじゃない。けれど、もし万が一ジュンの気持ちが再び自分に向いたなら、自分は一体どうすればよいのだろうか。若い頃のような苦しさも、胸の高鳴りも無い。静まり返った自分の心が逆に恐い。ジュンを好きになってはならない。そのことは自分が一番良く知っている。 「ダメよ」  そう言葉にして吐き出すと気持ちが楽になった。その時、トウコは何かを思い出しそうになった。それが何だったのか思い出せないまま封をした。その思い出の欠片が胸のどこかに刺さって痛みを覚えた。色彩は無かったが、微かに当時のにおいがした。
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