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四
除雪された雪が路の端に積み上がっている。排気ガスや埃で表面が黒ずんでいた。ジュンは相変わらず仕事を探すわけでもなく、日中は市内を散歩し、どこかで食事を済ませ部屋に戻った。こたつにもぐりこみ文庫本をめくる。哲学書が好きなのは今も昔も変わらない。東京での仕事は書店員だった。専門学校を卒業して以来、書店での仕事を続けてきた。出版不況となり退職を余儀なくされた時でも、他の仕事に興味が持てなかった。この歳になるまで本を売ること以外何も身についていない。最近まで勤めていた書店を辞め、辺りを見渡した時、もうどこにも居場所が無いことに気付いた。いや、そんなことはずっと以前からわかっていた。社会は子供の頃に遊んだイス取りゲームに似ている。一度手に入れた席を離れると、次に席につこうと思った時には誰かが既に座っている。年々席が減り、輪から弾き出される。
ぼんやりとトウコのことを考えていた。夜十一時過ぎ、携帯電話が鳴った。トウコからだった。近頃は毎晩話すようになっていた。話題はその日のニュースや、学校での出来事が殆んどだった。
「ねえ聞いてよ、今日ウチのクラスのナカノ君って子が全国模試のランキングに入ったのよ、凄くない?」
「へえ、我が母校にもスターがいる訳だ」
「ジュン君、あなた最高点は?」
「聞くかね? そんな昔のこと」
「いいじゃない、別に。私は県内でトップ五○に入ったことあるわよ。あの頃、一番勉強したかもしれない」
「そりゃ、ようござんしたね。君には敵いませんよ」
トウコが携帯電話の向こうで笑っている。
「ジュン君さあ、あなたの高校の一つ先輩でイシズカトシオっていう人知ってる?」
「知らない。誰、それ?」
「職場の同僚で数学を担当してる先生なんだけど」
「その数学の先生がどうしたの?」
「ううん、別に」
「気になるの?」
「まさか。ただ、あなたと正反対だなと思って。本人曰く、勉強はできたけど美術はからっきしダメで、夏休みの課題の水彩画、電柱とスズメを描いたんですって。私、それ想像して、可笑しくって可笑しくって、思わず笑ってしまったわ」
「本人の前で?」
「だって仕方がないでしょう?」
「電柱とスズメの絵か、ある意味凄いな」
「でしょ? 性格も生真面目であなたと真逆のような人なのよ」
「そんで、何が言いたいわけ?」
「あれ? ジュン君、妬いてるの?」
「んなわけないでしょ」
「だよね。でも、その数学の先生の気持ちもわかるのよね」
「何だよ、それ、また自慢か?」
「ううん、違うの、そうじゃないのよ」
「じゃあ、何なんだよ」
トウコが黙った。
「私、どうしたらいいと思う?」
「知らないよ。好きになられたお前も悪い」
「酷い言い方。まるで彼氏のようね」
「相手は本気なのか?」
「さあね、本気かもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもそんなことジュン君には関係ない話よ」
「何だよ、自分から話を振っといて」
トウコが携帯電話の向こうで笑っている。
「誰でもいいから、ちょっとだけ話を聞いて欲しかったの」
「ハイハイ、誰でもよかったんでしょ。他人の恋話聞かされる身にもなってほしいもんだね全く」
「ところで、仕事探しは順調?」
「ああ、順調だよ、順調」
「嘘おっしゃい。どうせまだ探してもないんでしょう? こたつに入って本読んでる姿が目に浮かぶわ」
「何でわかるんだよ。仕事なんてそのうち勝手に見つかるから心配要らないよ。近々面接する会社があるんだ」
「へえ、珍しい会社もあるものね。それでどんな仕事?」
「さあね、お前には教えたくない」
「言いなさいよ」
「やだね、どうせ笑ってバカにするんだろう?」
「どんな仕事だってバカになんてしないわ。それをしちゃったら、教師として失格ですもの」
「世知辛い世の中だよ」
実際、盛岡に来てから求人サイトやハローワークで仕事を探してみたが、結果は散々だった。興味を示す企業があっても、たいていは年齢と未経験という理由で体良く断られた。もう社会には必要とされない存在なのかと思うと、惨めで気持ちが塞いだ。トウコについた小さな嘘。自分はこんなにも小さな男だったのか?
「面接、採用されるといいわね」
「そうだね、有難う」
次の言葉が見つからなかった。
「それよりトウコ、今度の日曜日、飯でも行かないか?」
「いいけど、どこへ?」
「そうだな、久々にパイロンでも行くか」
トウコが溜息をついた。
日曜日の街は人で混雑していた。聞けば岩手公園で何やらイベントがあるらしく、それを見に行く人の波に乗ってしまった。桜山神社の脇の小路から公園へと続く路は、以前トウコと何度となく通った路である。池の脇の路地裏にその店がある。
「せっかく外で食事するのにパイロンだなんて、あなた余程あの店が好きなのね。もうちょっと気の利いたお店行きたかったわ」
「気の利いた店ね。別にいいじゃん。東北美人がじゃじゃ麺を食べる姿なんて最高だと思うよ。そのギャップがさ」
「そんな変てこな感性してるの、あなただけだと思うわ。全く呆れちゃう。私ももうそんなこと気にするような年齢じゃなくなったのが悔しいけど、もう少し女性として扱ってほしいわ」
口を尖らせるトウコを見て、ジュンが頬を緩めた。案の定店は混雑していて、二人は店の前の列に並んだ。
「こんなとこ生徒に見られたらどうしよう」
「別にいいじゃん、不倫してるわけでもないし」
「そうだけど、年頃の子たちだものあなたと一緒にいるところを見られたら何を噂されるかわからないわ」
「先生だって一人の人間なんだよって教えてやれよ」
「呑気なもんね。あなた知らないでしょうけど、PTAだってうるさいんですから。しかもよりによってパイロンの行列に並んでいたなんて恥ずかしくて」
ジュンが笑った。ようやくカウンターに通されたのは、すでに昼時を過ぎていた。盛岡「じゃじゃ麺」は所謂「ジャージャー麺」とは別物である。ジャージャー麺が中華麺であるのに対し、じゃじゃ麺は平打ちのうどんである。汁は無く、麺の上に肉味噌が乗っていてそれを崩して麺に絡めて食べる。そして最後にチータンと呼ばれるスープを皿に注いでもらい、皿に残った肉味噌を溶き、卵を入れて飲み干す。これが盛岡のソウルフードとも呼ばれる。学生の頃はトウコを連れてよく食べに来た。当時は男性客ばかりで、恥ずかしがる彼女の姿を見るのが好きだった。その辺は今も昔も変わらない。
「やっぱ落ちつくな、ここは」
「何言ってるのよ、全然落ち着かないわ。無神経なところが昔とちっとも変わってない」
「一人で来ることあるの?」
「はあ? 一人でなんて来るわけないでしょ」
ジュンが笑う。
「そういうとこ、昔と変わってないな」
トウコが頬を紅らめた。
「俺も最初はそんなに美味いとは思わなかった。だけど何となく食べ続けているうちにまた食べたくなって、不思議なもんだね」
「ただ単に飽きっぽいだけなんじゃないの?」
ジュンが舌を出した。
「確かにそうとも言える」
「変な人、私ったらどうしてあなたみたいな変な人を好きになっちゃったんだろ? 自分の感性疑うわ」
「変な人ね。俺は昔から変な人と言われるのが嬉しかった。今でも最高の褒め言葉だと思ってるけどね」
トウコが大袈裟に肩を落とす真似をした。
「本当、変な人」
「有難う。そういう君も充分変わってると思うけどね」
「はあ? 私まで変人扱いしないでよね。私、これでも教師なんですからね。あなたと一緒にされても困るわ」
「わかってるよ。ちょっとからかってみただけ」
「相変わらず嫌な趣味ね」
「変人なんだから仕方がないだろう?」
「確かに、それは認めよう」
二人で口を抑えて笑った。トウコとの会話が夫婦漫才のように続く。昔からそうだった。ジュンが目を細める。トウコと別れてから東京で数人の女と付き合ったが、こうはいかなかった。何が違うのかはわからない。昔馴染みだという安心感だけではない。心地良い声の響きも、表情も仕草も、勿論付き合っているわけではないのだけれど、この感覚は恋人に対するものというよりは、むしろ親友に近いものだ。使い慣れた職人の道具であるかのような、意識せずとも肌に吸い付くような感覚。そうトウコは「親友」なのだと思い直す。ただそう思った時の寂しさが込み上げた。店を出て岩手公園まで歩いた。
「ジュン君、少し聞いてもいい?」
「いいけど何を?」
「あれからどうしてたの?」
「あれからって? 君と別れた後のことかい?」
トウコが頷いた。
「そう、あなたが旅行に行くと言って出かけたあの日以降のこと」
「そのうち話すよ」
「答えになってないわ」
「そこでコーヒーでも買って、公園のベンチにでも座ろうか」
ジュンが通り沿いにあるフランチャイズの喫茶店のコーヒーを買いに走って行った。トウコはその後姿を目で追った。彼を責めたいわけではなかった。ただその理由が知りたかった。学生時代最後の冬に、彼は海外に旅行に行くと言ったきり戻って来なかった。その理由が知りたかった。トウコの心にはあの時のぽっかりと開いた穴が未だに大きな口を開けている。胸が痛いわけでも苦しいわけでもない。昔のことだとわかってもいる。けれどもその理由が知りたかった。でも、やめにした。彼はいつもそうやって私から離れて行く。トウコはそれを経験的に知っている。今、彼がまた私の目の前から消えてしまっても構わないが、この先はもう二度と彼が私の傍に戻ってくることはないだろう。叱られると小さくなって物陰に隠れる子供のように、またどこかに突然姿を消してしまう。ジュンがコーヒーを二つ両手に持って近づいて来るのが見えた。子供のような笑顔を湛えている。それを見ると急に体の力が抜けた。
「急に走って行かないでよね、びっくりするじゃない」
「ごめん、ごめん、で、話って何だっけ?」
トウコがコーヒーカップを受け取り、溜息をついた。
「もういいわ、でもせっかくだからそこのベンチに座ってコーヒーいただきましょうよ」
「二人でベンチに座ってるとこ、生徒に見られたらどうする?」
「いいの、先生にだってプライベートがあるんですから。それにここは学区外だから中学生は来ないわ」
「へえ、さっきのパイロンの時とは大違いだ」
トウコが苦笑する。
「学区外ね、俺なんて小学生の頃からこの辺ウロウロしてたけど、学区外だったんだ?」
「あなたは特別よ。よくそんなんで学級委員務まってたわね? 学校のルール取り締まる人が、自らルール破って平気な顔してたんですものね。まるで国の悪い政治家みたい」
「知らなかったんだよ、そんなルール。だって路が続いてりゃ、そりゃあ行くでしょ。壁があるわけじゃないし」
「親御さんは何も言わなかったの? 注意されたりとか」
「無い、無い、今思えば寧ろ推奨してた。中学の時二百キロ離れた仙台まで自転車で行ったことあるし」
「子も子なら、親も親ね。確かにあなたのご両親も当時からぶっ飛んでたような気がするわ。あなたのその性格も親譲りなの?」
「さあ、どうだかね。時々学校サボって親父と釣りに行ってたけど、仮病の電話は親父が学校にしていたし、会社もサボってたみたい」
トウコが頭を抱える真似をする。
「教職員の敵だわ。あなたたち親子信じられない」
ジュンが白い歯を見せる。
「でも万が一教え子に見られたらどう言い訳する?」
「平気よ、生徒に嘘はつかないわ。先生にだってボーイフレンドの一人や二人いるのよって言ってやる。それに私、バツイチだし、誰に見られたってやましいことなんかないし」
「数学のナントカ先生は?」
「関係ないわ。それにあなたとそういう関係じゃないし」
「お互いの同級生には見られたくないな」
「別に構わないけど」
「付き合い初めの頃を思い出すよ。あの頃は君と一緒にいるところを誰かに見られたくて仕方なかった。君みたいな美人と一緒にいるところを見られるのがちょっとした自慢だった」
「あらそう、初めて聞いた。そんな風に思っていてくれたんだ?」
ジュンが静かに微笑んでいる。
「そろそろ行かない? 今度はもっと高級店で御飯ご馳走してよね」
「無職の俺に飯奢らせるのかい?」
ジュンが目を細める。
「何よ、そんなこと言いながら、あなた嬉しそうじゃない」
「君には敵わないよ」
遠くでイベントの歓声が沸き起こった。
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