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一
どこから湧いたのか、虚しさの泉のようなものがあり、そこから溢れ出たものが空っぽの心の穴に零れている。いつからそう感じるようになったのかわからない。根無し草のように放浪するのも、これが最期になるだろう。元々安住の地など存在しなかった。ただ雪国の白く光る光景だけが、脳裏に焼きついている。それは東京にいても、異国にいても変わらなかった。
新幹線のドアが開くと同時に、鼻の奥がツンとした。眼鏡を曇らせたまま人気の疎らなホームに降り立つ。盛岡はジュンが高校を卒業するまで過ごした街だった。
午後二時にトウコと待ち合わせている。酒が飲める手頃な喫茶店はないかと尋ねたら、駅ビルの地下にある店を教えてくれた。東京にもあるチェーン店で、エスカレーターで地下に降りるとすぐに緑色の看板が目に入った。
まだ時間がある。きっと彼女のことだから、昔のように優等生の顔をして現れるだろう。昼間からお酒なんて、と声が聞こえてくるようだ。ずっと会っていなくても当時の面影ならいつでも思い出すことができる。澄んだ瞳で見つめられると、目のやり場に困ったものだ。あれから何年経ったのだろう。長かったようでもあり、短かったようでもある。
バーカウンターでビールとクラブハウスサンドを頼んだ。久々に会うトウコにどんな表情をしてよいのかわからなかった。あの頃に比べ自分は成長したのだろうか。少なくとも世間的な出世とは無縁の人生を歩んできた。就職が厳しい世代だったとは言え、同級生の中で敢えて社会の歯車になることを望まなかった。根拠の無い自信と自惚れ。それを知ったのは全てを失った後だった。
トウコとは高校時代に知り合った。ジュンが高校二年、トウコが高校一年の時だった。二人は別々の高校に通っていた。トウコがジュンの高校の文化祭に訪れたのがきっかけだった。文化祭には県の芸術祭賞に入選したジュンの作品が展示されていた。
「うちの生徒じゃないよね?」
トウコが目を大きくした。
「美術部?」
「ええ」
黒いポロシャツが似合っていた。
「トウコ、どうしたの?」
一緒に来ていた女友達から声をかけられると、小さく会釈して駆けて行った。その後、人づてで彼女が隣の高校の一年生であることを知った。
約束の時間までまだ三十分ある。トウコは現在、盛岡市内の中学の美術教師をしている。今日は土曜日だが午前中出勤して、午後なら迎えに行けると連絡があった。この冬の時期は担任を持つ教師として、生徒の進路指導や部活の顧問などで忙しいということだったが、明日の日曜日はジュンの部屋探しを手伝ってくれることになっていた。クラブハウスサンドを頬張りながら時計に目をやる。秒針が時を刻む。グラスの泡が消えかけていた。
ジュンが高校を卒業と同時に東京に行くことになり、トウコは一年遅れて自らも東京の大学に進学した。トウコは第一志望の大学に合格したが、ジュンは浪人の末、進学を諦めた。二年後、ジュンが専門学校を卒業と同時に別れた。
ふと時計を見上げた。二時五分前。昔から時間を守る女だった。振り向かずともわかる。
「久しぶりね」
懐かしい声に背筋が震えた。振り向きたくとも振り向くことができない。耳の裏側で気配だけ感じ取る。言葉が見つからなかった。
「昼間からお酒なんてね、あなたらしいわ」
「最低って言いたいんだろう?」
ジュンが顔半分だけ振り向く。
「やっと会えたね」
「ええ、やっと会えたわ」
トウコの瞳が揺れていた。
「あなた、少し太ったかしら?」
「ああ、そう言われる」
「幸せ太り?」
「さあね」
視線がジュンの左手薬指に注がれた。
「お昼は?」
「いいえ、まだよ。あなたが思っているほど学校の先生って暇じゃないの」
「わかってるよ」
トウコが隣に座り、店員にコーヒーを注文した。
「よく来るの?」
「来ないわよ、専ら自炊、贅沢は敵ですもの」
ジュンが苦笑した。
「あなたって昔とちっとも変わってないわね。急に思いつきで人を呼び出したりして後先考えないところとか」
「君はだいぶ変わったようだね」
「どこが?」
「髪が短くなった。俺の知ってるトウコは黒髪のロングだった」
「そうだったかしら? 私、地元に戻ってからずっとこの髪型よ」
「君に会うのは、あの日以来か」
「ええ、そうよ。長かった? 短かった?」
目を瞑る。
「長かったようで、短かった」
「何よ、それ」
「君は?」
「私には長かったわ、でも、もうそんなことどうでもいいの」
カウンターに手を置いた。東北の女らしい白く透き通るような肌に血管が浮いている。
「もう少しでお婆ちゃんになっちゃいそうよ」
「見せてみなよ、そんなことないだろう」
「男の人はね、これからでしょうけど、女はね、落ちる一方なんですから」
「大丈夫、君ならまだ充分いける。二十代にだって見えるさ」
「無責任よね、男の人って。調子の良いことばかり言って」
ジュンが鼻の頭を搔いた。
「ところでメールに書いていたこと、本気なの?」
「本気って?」
「またいつもの気まぐれじゃないでしょうね?」
トウコと別れたあの日以来、彼女がどんな人生を歩んで、どんな思いを抱いていたのか知らなかった。年に一度、年賀状で互いの連絡先を確認してはいたものの、途中で「キタムラ」という彼女の苗字が「ニシダ」に変わり、そしてまたキタムラに戻ったことくらいしか記憶にない。
「あなたの気まぐれに付き合わされるの、真っ平ですからね」
「わかってるよ」
「さあ、どうですかね。まあ、いいわ、そろそろ行きましょう。雪国は日が暮れるの早いのよ。不動産屋さん巡る前に暗くなってしまうわ」
「恩にきる」
二人が席を立った。トウコが駅前のコインパーキングから車を出す。黄色い軽自動車だった。
「可愛らしい車だ」
「悪かったわね、高級車じゃなくて。地方公務員の給料なんてたいしたことないのよ。その割りに部活の顧問だ何だって忙しいったらありゃしない。こんな軽自動車一台維持するのだって大変なんですから」
「そういうつもりで言ったわけじゃないよ。君らしい洒落た色の車だと言いたかったんだ。俺なんて車すら持ってない」
「あらそう、有難う。東京じゃあ車が無くても移動に困らないでしょうけど、こんな田舎町じゃどこへ行くにも車がなくっちゃ話にならないわ。それでいて物価が特別安いわけでもないし、何か損した気分よ」
「まあ、そう言うなよ。東京じゃワンルーム借りるのだって六、七万円はかかる。駐車場だけで二万だ。それに比べりゃぁ、こっちならニ、三万で部屋借りられるだろう? 車はバスを使えばいい。それに車を持っている友人がニ、三人いれば」
「私はあなたのアッシー君になるのはごめんですからね」
ジュンが苦笑してトウコの横顔を見つめた。変な言い方だが、以前より逞しくなったように思う。慣れた手つきでハンドルを切る。ギアを握る左手の薬指に目をやった。髪は短くなったが、美術の教師らしいスタイリッシュな格好の良さは昔のままだ。若い頃からどこかデザイン的で、斬新で、そしてジュンが知り合った女性の誰よりも聡明だった。口元の小さなホクロも以前と変わらない。きっと学校では人気の教師であるに違いない。
「で、ジュン君、どの辺りに住むか決めてるの?」
「そうだな、トウコは今どこに?」
「私は今は下橋の実家を出て、肴町にマンションを借りてるわ。勤務先が河南中だし、どこに行くにも便利な場所だから」
「河南中? 俺の母校だよ」
「そうだったわね」
「君は確か下橋中学だった」
「そうよ、私、あの辺から離れられないの」
「お父さんとお母さんは元気?」
「ええ、元気よ、御陰様で。元気過ぎてうるさいくらいよ。早く再婚しろ再婚しろって、顔を見ればそればっかり。孫の顔がどうだとか言ってるけど、結局は自分たちの都合であって、私の都合なんてあったもんじゃない」
しばらく沈黙が続いた。カーラジオから懐かしいIBC岩手放送の番組が流れている。暖房で頬が火照った。
「懐かしいラジオ番組だ。今でもやってるんだね。高校の頃よく聞いていたよ」
「あら、そう、地元民にとっては日常ですけどね。たいした娯楽もない田舎町ですから。土曜の午後のラジオ、案外私も聞くわ、職員室で」
「君の姿が目に浮かぶよ」
「で、ジュン君、どこへ行けばいいの?」
「そうだな、じゃあ、高松の池の近くがいい。暇な時、釣堀にでも行こうかな? 君は市内の南側だろう? 俺は北側でいい。あの辺りは馴染みもあるし、それに、君だって、俺が近所に住んだら気まずいだろう?」
信号待ちで車が停車した。
「そんなことないけど」
エンジンの小刻みな振動が伝わる。
「部屋探しの後は? まさか日帰りじゃないんでしょう?」
「大丈夫、今日は駅前のホテルで一泊するつもり。明日一日で部屋を決めて、夕方一旦東京に帰るよ。引越しの準備もあるしね。向こうで荷物を送り出したら、すぐにまたこっちに戻って来る」
「相変わらず行き当たりばったりね。あなたっていつもそう」
「ダメかい?」
「別にあなたの人生だもの、ダメってことはないけど、それに付き合わされる人は堪ったもんじゃないわよね。あなた一人で自由気ままにやるのは結構ですけど」
「何か棘があるなあ。でも、俺も今度は本気でここに落ち着こうと思ってる」
「はい、はい、いつまで続くんでしょうかね」
中央通りから上田に向かい、岩手大学農学部の角を左折した。右手に白塗りの建物が見える。
「君の母校だね、たまに顔出したりするの?」
「しないわ、気恥ずかしいし」
窓の外を見た。二本の白線が入った学生帽が目に入った。
「わからないものよね、出会いって。あなたと私は高校も違えば学年も違っていたんですもの。たまたま私があなたの学校の文化祭に行って、たまたま居合わせたあなたが私に声をかけた。普通ならそれきりでしょうけど、偶然あなたのお友達が私の中学の先輩で、再びあなたと引き合わせてくれた」
「運命的だった?」
「どうかしら? 今はお互いに別々の人生を歩んでいるのに?」
「確かにね、運命的って、言い換えれば偶然のことだから」
トウコが頬を緩める。
「哲学的ね、その辺は昔と変わってない」
高松の交差点で赤信号に捕まった。
「ところで、ジュン君、仕事は?」
「まだ決めてない」
「嘘でしょう?」
「こっちに引っ越してからゆっくり決めるつもり。幸い多少の貯金があるし、しばらくのんびりするよ」
「でもさあ、ジュン君、部屋借りるのに無職って大丈夫?」
「何とかなるよ」
「東京と違って、地方は仕事探すの大変なのよ。それに私たちもうそんなに若くないし」
「わかってるよ」
目を逸らせた。道端の残雪が目に入った。ザラメ状になり、土埃を纏って黒ずんでいる。仕事を辞めて無職だと言うと誰もが同じ目をする。それは二十代の頃には感じられなかったものだ。
「家賃なら大丈夫。何なら一年分前払いしたっていいよ。それでもダメなら保証会社に頼んだっていい。仕事ならすぐ見つかるよ」
「あなたらしい発想よね、普通なら仕事決めるのが先で、それに合わせて引っ越してくるのでしょうけど、あなたを見ていると本当、世の中の常識って何なのかな? って思わせられるわ。でもね、今、田舎じゃ就職するの大変なのよ」
「わかってる。田舎だけじゃない、東京だって同じだよ。若い奴の仕事ならたくさんある。だけど四十代になるとそれなりの社会経験や資格が無いと面接すら受けられない。トウコが公務員を選んだのは賢いと思うよ」
トウコの表情が強張った。
「公務員ね、確かに世間的にはそうでしょうけど、私、本当は美術の先生になりたかったわけじゃないし」
「美術の先生に満足していないのか?」
「ううん、そうじゃないの。でも、時々虚しくなることがある。本当にこれで良かったのかなって。公務員を否定しているわけじゃないのよ。皆、何かしらそんな思いを抱えながら生きているのでしょうけど、私は芸術家として生きることを諦めた。まだ仕事として、芸術を教えることができるだけ幸せなのかもしれないけど、違う生き方もあったのかなって思う時がある」
「トウコは立派だと思うよ、俺なんか無職で住むところも定まってなくて、それでいて絵を描き続けているわけでもない。一つのことすら続けられず、経験も資格も無く、空白のような人生を歩んでる」
「あんなに絵の才能があったのにね。私なんかよりずっと絵が上手で、そこそこ勉強もできたのに、どうして大学にも行かずふらふらと根無し草のように生きているのかしらね」
「根無し草か、当たってる。君は昔から物事の本質を見ることに長けている。確かにそう、俺は根無し草のようだ」
「ごめんなさい。そんなつもりで言ったわけじゃないの」
「わかってるよ」
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