3 彼と私

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 夜の七時になり、何とか仕事からは解放された。雨は未だ降っていたのでレインコートを被って学校を後にする。蝉の声が左右の木々から絶え間なく聞こえてくる。夏の香りが鼻腔を通って全身に回る。  蝉の声が止んだ時、代わりに誰かの啜り泣く声が聞こえた。一回聞いた声だったから、振り向く前に分かってしまった。    越後くんが公園のベンチに座って泣いていた。 「越後くん……?」 「えっ……あ、いや、近付くなって言ったよな」  私は咄嗟にハンカチを取り出して顔を隠す。 「シュレディンガーの前野、なんちゃって」 「……なんだそれ」  傘もささずに全身を濡らしていた越後くんに鞄から折りたたみ傘を渡す。無言のまま受け取られてそのまま使い始めた。濡れた髪に触れた涼風が彼を通して私にも伝わってくる。 「何かあったの?」 「別に。何でもないよ」 「何も無いのにそんな顔するんだね」  涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔が、雨水と混ざりあって物凄い事になっていた。靴先は泥に 塗れていて、何回も地面を蹴っていたのだと分かる。余程悔しい事があったのだろう。 「私、越後くんの力になりたいの」 「僕は君の力を借りたくないね」 「えっと、話すだけなら無料だから! あと、私からの励ましも今なら無料だよ! 超お買い得!」  彼は何度か逡巡すると、大きく溜息をついて喉を鳴らした。水溜まりに雨粒が落ち、彼が覚悟を決めるまでのストップウォッチの役割を果たしていた。何百滴と水が注がれて、彼が小さな声で語り始める。 「何やっても駄目なんだ。勉強も出来ないし、運動も出来ない。かといって人より優れた何かがある訳でもない。順位も後ろの方だし。だから人生に悲観して泣いてた。これで満足?」 「うーんあんまり分からないなあ」 「励ます気あるのか?」  確かめるように言葉を脳内で反復させるが共感が出来なかった。それは今までの人生経験が違いすぎるから。言葉の意味を単語帳で引いて解読する事は出来ても、それでは心の縁にすら届かない。 「お前は優秀だよな。生徒会長になって、何でも出来て。僕の事もポケットがなかったら気にしなかったんだろ? 随分な身分違いだよな」 「私、越後くんに嫌な事しちゃった?」 「ああ、もう最悪だよ。ずっと僕の前にいるんだからな。何回夢の中で苦しめられたか……」  心に磁石が配合されていたらどんなに楽だろう。勝手に引っ付きあって理解し合えれば言葉なんて必要無い。でも、現実はそうじゃないから必死に言葉を探す。磁石に代わる、そんな言葉を。
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