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木曜日。
コンテストの締め切りが着々と迫っている。
本当に諦めていいのだろうか。本当に、ここでやめてしまっていいのだろうか。
あたしは、昨日からぐるぐると同じことを考えていた。授業には身が入らず、休み時間にミヤちやトモヤに話しかけられても生返事しかできなかった。気が付けば放課後になっていて、あたしの周りには誰もいなかった。
「…………」
もう何度目かわからないため息をついて、帰り支度をする。陸太朗にスマホでいくらメッセージを送っても、返事は一つも来なかった。いっそのこと放課後に直接会いに行ってやろうかと思っていたが、こんな時間になってしまったらとっくに帰っているだろう。
それに、会ったところで何を話していいかわからない。
料理部を立ち上げたのは陸太朗で、料理部を通してやりたいことがあったのも陸太朗だ。
途中から、あたしも応援したいと思うようになった。陸太朗がそんなに真剣なら、あたしもできるだけ力になりたい、と。
だが結局、あたしはただ、陸太朗に付き合っていただけ。彼の夢に乗っかっていただけなのだ。
(……だから、あいつが辞めると言ったら、あたしにできることはもうないんだ)
とぼとぼと、足の向くまま廊下を歩いていく。昇降口へ向かっているつもりだったから、突然先生に話しかけられて驚いた。
「おう、櫻庭。今日は遅いんじゃないか?」
「――えっ?」
顔を上げると、そこは昇降口ではなく職員室だった。部活へ行くときの道順を無意識にたどってしまったのだろう。
名ばかりの料理部顧問が、あたしの目の前で家庭科室のカギを揺らしている。
「え……、先生、なんで……」
「あー、今はあいつら休憩中だ。今のうちに終わらせたい仕事があって戻ってきたら、おまえがいたんでな」
料理部は急遽設立されたため、バレー部顧問の先生が掛け持ちでその役目を担ってくれている。バレー部が忙しいため、職員室にはほとんどいない。だからいつも、他の先生に鍵をもらうのが日課だった。
(なんで、こっちに来てしまったんだろう……)
あたしは唇を引き結んだ。
行動の早い陸太朗のことだ。先生にはすでに話が通っているに違いない。「家庭科室の片づけをするのか?」とでも聞かれるのだろうか。あたしは思わず身構えた。
だが、先生は猫をじゃらすかのようにカギをぶらぶらさせているだけだった。
「? おい、いらないのか、家庭科室、行くんだろ?」
「えーと、あの……、片付けは、陸太朗がすると言っていて……」
「は? 片付け? なんだ、昨日、していかなかったのか? ――いやでも、おかしいな。家庭科室を使ったクラスから、苦情なんて何も来てないし……」
「そうじゃなくて! いつもの片づけはちゃんとしたんですけど、でもあの、道具とかはまだそのままで……」
「は? じゃあやっぱり、片付けしていないのか?」
「…………?」
なんだか会話がかみ合わない。あたしはいったん心を落ち着けて、聞いてみた。
「えーと、先生。陸太朗から何か、聞いてませんか?」
「さっきから何の話をしてるんだ? 聞いたって、何――、ああ、あれか? いや、あのことならちゃんと覚えてるぞ!? なんかあの……、ショーみたいなやつだろ。二人一組で出場するやつだろ」
「ショーじゃなくて、コンテストです」
反射的に突っ込んでしまった。混乱しているうちに自然に鍵を渡されて、つい受け取ってしまう。
何も知らず「頑張れよー」と声を投げかけてくる顧問を背に、職員室を退出した。
手の中のカギを見ながら思う。陸太朗はまだ、廃部の手続きをとっていないようだ。それは彼がまだ迷っている証拠だと思うのは、あたしの考えすぎだろうか。
鍵を受け取ったからにはすぐ帰るわけにはいかない。とりあえず家庭科室に入り、定位置の椅子に腰を下ろした。鞄から陸太朗手書きのレシピを取り出す。
昨日、これだけは置いて帰る気になれなかった。書き込みだらけのそれを広げて見ると、陸太朗のちょっととがった文字が並んでいる。
堅苦しそうで、角ばっていて、だが、まっすぐで力強い字。
(――ああ、ここ、オーブンを予熱すること、書き忘れてる……)
少しためらった後、筆入れを取り出して書き足した。
ここの作業はいらない。二重線で消す。訂正したはずの焼き時間が直されていない。五分短くして書き直す。
書き込みだらけのレシピは、二人で試行錯誤してきた証だ。応募書類にはこれを清書し、完成品の写真を添付して郵送するはずだった。
全然思い通りにならなかったし、完璧だとはまだまだ言えない。それでも、今までの二人の成果はここに記されている。
文字を人差し指でたどっていくと、一行一行、陸太朗とのやり取りを思い出して胸が締め付けられる。
(なんで……、もうすぐだったのに……)
こんな中途半端で終わるのか。ここまで頑張ったのに、完成までこぎつけられず、コンテストにも応募できず、陸太朗ともこんな形で物別れに終わるのか。
こんな、いつものあたしみたいに、中途半端なままで。
「……そんなの、嫌だな」
ぽつりとつぶやくと、自分の気持ちが次第に輪郭をもっていくのを感じた。
陸太朗の話はわかった。納得できないけど言いたいことは理解した。だが、それとあたしの気持ちとは別だ。
あたしは、櫻庭美桜は、これからどうしたいのか。
(……あたしはこれを、ちゃんと完成させたい……!)
完成させて、二人で力を合わせて作り上げた作品を、「すごいでしょ」って誇りたい。最後までやり切ったんだと自信を持ちたい。
陸太朗は、一人で始めて、一人でやめた。始めるときはまだしも、やめる時すらあたしに相談もなしだった。
あたしは、信頼できるパートナーにはなれなかったのかもしれない。だが、あたしにはあたしなりの、頑張りたい理由があったのだ。陸太朗が料理部をやめたって、あたしまでそれに付き合う義理はないんじゃないか?
「――よし!」
あたしは鞄を置き、エプロンを着けた。腕まくりをして両手を丹念に洗い、調理器具と材料を取り出し、レシピをテーブルの上に固定した。
これは、あたしと陸太朗のレシピだ。陸太朗がいらないと言うなら、あたしがもらう。
何度連絡をしても一切返信の来ないスマホを見て、不敵に笑った。
「……見てろよ、陸太朗」
あたしが、最後まで完成させてやる。
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