序章 夜と昼の顔

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序章 夜と昼の顔

 時は享保。徳川吉宗の時代。舞台は将軍のお膝元。  平穏な世であるはずなのに、そこには鉄の焼ける匂いが満ち満ちていた。夜であってもその匂いは消えない。  まるで、そこだけがまだ戦国時代かのように、時が戻っているような感すらある。そこはさまざまな武器を一から作っている偏屈な者達の集まる〝鍛冶屋町〟である。  春の暖かい日の夜。月光を背に、男が屋根から立ち上がる。  黒の長着と、同色の馬乗り(ばかま)を身に(まと)っており、黒の足袋を履き、同色の羽織(はおり)。黒の布で鼻と口を隠している。腰には黒の日本刀を帯びている。家紋などはどこにも入っていない。 「……いくか」  黒ずくめの男は呟くと、音もなく駆け出した。  今回の相手は、伊藤家である。屋敷の規模はさほど大きくはない。下級武士程度だろう。  見張りの意識を飛ばし、堂々と屋敷に入る。  大勢の曲者(くせもの)という声を聞きながら、刀を抜いた。それはすべてが黒で統一されている。  縦横無尽に素早い動きで、男達を戦闘不能に陥れていく。真剣であるのに、命までは奪わない。  だが、彼らに〝生き地獄〟を味わわせるために動く。男の目的は、この家を根本から叩き潰すこと。二度と返り咲かぬように。  返り血の滴る刀を手にしたまま、最奥の座敷を目指す。 「〝因縁(いんねん)引受人(ひきうけにん)〟かああああっ! わしは倒れぬ、死なぬ!」 「(あや)めはしない」  男は斬撃を放った。 「あああああああっ!」  左腕を斬り落とされ、激しい痛みに叫んだ。  (うるさ)そうに顔を歪めた男は、盛大な溜息を吐いて、喉を刺し貫いた。  声がぴたりとやんだ。 「地獄へゆけ」  気にせず男は惨劇と化した屋敷を出ていった。
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