川劇のばけもの

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(1)  銀夕座(ぎんゆうざ)がきたぞ!  死に行く僕の暗澹たる気持ちを見事掬い上げたのは、群衆の声だった。姦しい大通りから外れた小さな公会堂前で足を止め、眼球だけで声の発生源を探した。いた。黒山とまでは言わないが、片手では数えられないほどの人々が背伸びをして路地の暗がりを覗き込んでいる。死にたい、という気持ちを一瞬忘れさせるほどの好奇心で、僕もふらふらと人々の群れに加わった。密集した人々の汗のにおいが、夕立のあとの赤光に染まる湿った会館を一層蒸し暑くする。ポケットに入れたままにしていた皺くちゃの鼻紙で額の汗を拭い、またポケットに押し込んだ。  『銀夕座』というのが今をときめくサーカス雑技団の名称だということは知っていた。いまにも朽ちそうな荷車を押しながら、夜に追い立てられるようにして東のほうからやってきた雑技団は群衆に一瞥すらくれず、会館裏へと向かう。てっきり大規模な集団かと想像していたのだが、銀夕座は少数精鋭派なようでたった五名ぽっちの構成であった。ふうん、と一人納得し、僕はもう一度死へとつま先を向けた。近くの森で首をくくるつもりだった。一時の興味は死を忘れさせたけれど、たったそれだけのことで人生を擲つ覚悟が揺らぐわけでもあるまい。興奮しきった人だかりとは違う方向を向き、僕だけが暗がりへと歩みを再開する。これまでの人生そのものだ。僕はきっと、誰かとともに生きることに向いていない。 「これ」  流行りの銀夕座を囃し立てる声が徐々に遠ざかるなか、僕の袖を引く者があった。胡乱に振り返り、ぎょっとする。派手な金色の面。深紅の縁取り。見上げれば頸が痛みを訴えるほどの長身。豪奢な飾りをこれでもかと塗した、闇色の派手な衣装。雑技団のだれか。 「え……」  これ、と金面は再度おなじことばを産み、手袋で覆われた指でつまんだ皺くちゃの鼻紙をゆらゆらと揺らした。 「落ちた」  僕の洟と、汗が染み込んだ鼻紙。差し出されるままに受け取り、なぜかお辞儀をしてしまう。 「すみません……」  どうしたものかと迷い、またズボンのポケットに押し込む。今度は落とさないようにという意味か、金面は僕のポケットに細い指を捻じ込ませてぐいぐいと塵を押しやる。すごい力だった。よろめくと、金面が慌てて支えてくれた。 「なくさなくて、よかった」  なにが。ああ、鼻紙のことか。ゴミを路上に捨てたと誤解され、あまつさえ嫌味のつもりでわざわざ巡業を放り出してまで鼻紙を渡してきたのかと勘繰っていたけれど、どうやら穿った見方をしすぎていたようだ。表情は面で隠されているので判別できないものの、金面は本当に僕が落とし物をしていて、更にのちのち失くし物をして困るのではないかと杞憂していたらしい。声の温度で判った。  ひとの気持ちなんてわからない。人と一緒には生きられない。そう思い失望した果てに死を選び取った僕であったが、この金面のこころならば、表情がないぶん、むしろきちんと真のこころを判別できるのではないかと期待してしまった。 (1)  金面の名は『回廊(かいろう)』というらしい。死を放り投げ、生を掬い取った僕はその足で公会堂へと赴き、銀夕座のステージを食い入るように鑑賞した。感服した。特に回廊のショーは格別に素晴らしかった。素晴らしいなんていう汎用な形容詞ではとても表せられないほど、それは煌めきと鮮烈な刺激に満ちすぎていた。  回廊は『変面師』として銀夕座の看板スターを見事に務め上げていた。ビーズの細かな刺繍で埋め尽くされた長い袖で面を隠し、わずか一秒にも満たぬ間に面の色を変える。螺鈿細工の扇子が回遊魚のようにさまよい、回廊の面に影を翳せば表情が変わる。さながら万華鏡だった。百面相とはこのことか。回廊が舞踏や剣舞を交えつつ変面するたび、小さな会場は割れんばかりの歓声でマグマのように沸き立った。その高揚はとにかく異様としか形容しがたく、観客全員が奇術にかかったように歓声を上げ、熱気に玉の汗を浮かべていた。僕も同じで、後方で立ち見をしながら左右前後に人の群れと押し合いへし合い、回廊に歓声と拍手を送り続けた。  僕は完璧に死への憧れを忘れた。ただこの身を支配しているのは、回廊という生き物にはじめて感じる熱い恋慕だけであった。  銀夕座は暫くこの地を拠点にするらしく、僕の実家が経営する小さな民宿に逗留する運びになった。どうして知らせてくれなかったのかと女将である祖母に詰め寄ると、彼女は鬱陶しそうに 「あんたが宿を手伝ったことなんてないじゃないか。もうすぐ成人するっていうのに毎日毎日部屋に引きこもって穀潰しのくせにすこしは    まあそんなことはどうでもいい。罵倒の記憶は消した。とにかく僕は、銀夕座、ひいては回廊のためにはじめて宿の仕事を手伝った。邪魔をしていたの間違いではないかと思われるかもしれないが、きちんと手伝ったのだ。回廊の使う布団は特に時間をかけて丁寧に丁寧に皺を伸ばした。三メートル近い身長をもつ彼と廊下ですれ違うたび、足を止めていつもうっとりと見上げてしまう。今朝は初恋にときめく少女さながらに頬を染め、焦げた卵焼きを恭しく回廊の前に差し出した。元々安価な上に、競合宿もいない土地柄だ。食事も最低限を並べればよしとする経営方針であったので下手くそな一品を献立に紛れ込ませようが誰もなにも言わない。それに、粗末な食事を前にしても金面の表情は揺るがなかった。薄い紙で作られた面が外されることは決してなかったからだ。ただ、剥げた漆を隠そうとして分厚いビニールをかけた卓の上に置かれた、これまた小汚い小皿を前にして彼はわずかに困惑しているようだった。派手な舞台化粧を落とした他のメンバーは楚々と食事を始めるのに、稼ぎ頭の彼だけ長身を折り曲げるように正座をしたまま箸を取らない。襖の影から彼を見守っていた僕は落ち着かない気持ちでいたが、おかわりのお冷を補充する為に数秒ほど目を離した隙に、回廊の前に並べられた皿たちはすべて空になっていた。驚いたが、回廊は相変わらず黙したまま咀嚼する動きすら見せず、ただ座っていた。  きっと回廊は、お面の化け物なのだ。人間ではない。己を拒絶する〝人間”ではないのだ。その結論に到達したとき、僕はうれしくてうれしくて、真っ白いシーツを空に放って赤光の夕立のなかで踊り狂っていた。  毎日、回廊のためだけに働いた。夕立が連日に渡って陰気な宿を濡らし、シーツが乾くのを邪魔した。雨上がりの夕暮れはもったりとした赤い澱に歪み、回廊の長い影をさらに果てなく伸ばした。  夕立が上がると銀夕座のショーが始まる。小さな公会堂で飽くことなく開催され、住民も律儀に毎度狂気の歓声を上げ続けた。僕もおなじように足繁くショーに通い、そのたびに回廊の変面を見守った。舞台上で色とりどりに移ろう彼の仮面は、一度ステージから降りるといつも金色に輝いていた。きっとその金色こそが彼のニュートラルな素顔なのだと思う。そしてそれはおそらく、正解だ。  夏の雨に湿気った木造廊下を、絞りの甘い雑巾で拭いているといやに濃い陰が差した。また雨かと顔を上げてぎょっと飛び退く。回廊がいた。 「今日は、中止」 「へ」 「舞台」  久々に聴く回廊の声音は、記憶にあるよりもずっと低かった。捉えどころのない、輪郭のない声をしている。面で抑圧された音圧は不明瞭で、開け放した廊下に拡散して聞き取りづらい。それを悟ってか、回廊は単語をぶつ切りにして、理解しやすいように話をしてくれた。 「そう、なんだ。残念だな」  不明瞭な声に、震える声で応答した。回廊は満足げに頷いて痩躯を折り曲げる。いつでも豪奢な衣装を着込んでいる彼の長いマントと袖が湿った廊下を撫でた。汚れてしまう、ととっさに伸ばした指が回廊に掴まれる。手袋越しなのに、妙に熱い手をしていた。人間に似た生き物の体温。 「見てて」  短く言うと、惚ける僕を揶揄うように彼は空いている方の手を眼前に翳し、いつも舞台でする素早い動きでぱっと変面した。桃色の面。見たことのない、淡い桃色の、恋を現す色。 「ごはん、いつもありがとう。そのお礼」  低い声が弾んでいる。照れ隠しなのか、再度の変面。いつもの金面だけれど、平素とはちがって紅い隈取りが笑んで見えた。ああ。やはりその面は、その素顔は人間ではなく……。  瞬きすら忘れ、きらきらと輝く黄金の面に見惚れる。秋風に波打つ金色の稲穂の海を連想したけれど、きっと稲が垂れる頃、銀夕座はこの街にはいないのだろう。 (2)  精彩を欠いた田舎町を熱狂させた銀夕座は今日、次の巡業へと旅立つ。思ったよりもずっと長い逗留になったのは、僕の焼いた卵焼きの味が団員のお気に召したからだと冗談めかしに噂された。 「穀潰しかと思っていたけど、毎日活気立っていたのはあんたのおかげだったみたいだね」  そう言って、祖母は鶯豆を甘く煮込んだ。僕の好物であった。銀夕座の面々が摂る最後の朝食ということで、小鉢の数もいつもの三倍以上あった。僕の拵えた卵焼きには焦げひとつ見当たらない。ただひたすらに恋しか感じていなかったが、どうやら宿の手伝いとしての腕も多少は上がっていたようだ。  回廊は相変わらず目を離した隙に一瞬で食事を平らげた。けれど、卵焼きだけは名残り惜しかったのか、何度かに分けて食べていて、それがひどくうれしく、完璧に死を忘れた僕のこころをとろとろに溶かした。  まいにちまいにち、夕立が街を赤く染める。けれど今日は赤光が街を灼こうと銀夕座は幕を上げない。ショータイムはもう終わりなのだ。  蒸れた海風が午前中の眩い光を縁側に運び、湿気った廊下は珍しく乾いていた。回廊の袖が撫でた箇所を指でなぞり、膝に額を押し付けて座った。寂しくて寂しくて、涙がズボンの色を局所的に濃くするのを止められない。 「かなしい?」  不明瞭な声。低くて、水底でとぐろを巻いているような声音。 「かなしい。さびしい」  顔を伏せたまま涙を零すと、視線の先でたなびいていた黄竜の刺繍が波立った。回廊がしゃがんで僕の頭を撫でた。慰められている事実に胸が破裂しそうになる。 「連れて行こうか」  予想していなかった言葉に顔を上げると、泣き腫らしたせいで細まった視界に回廊の金色が光った。目尻の垂れた隈取り。彼の多大な葛藤を窺わせる隈取り。けれど口角の隈取りは上向いていて、内心の期待を隠せていない。人間ではないからこそわかりやすい。仮面だからこそ隠せない。  僕は涙を乱雑に拭いて、濡れたままの指で回廊の袖を摘んだ。どこに連れていかれるかなんて分かるはずもない。人間の住む場所ではないのかもしれない。それでも回廊に導かれるのならかまわなかった。どうせ死を希っていたのだから、この命は救い上げてくれた回廊のものだ。はじめての恋を植え付けられた化け物に拐かされるのなら、それは本望としかいえない。    *   *   *  以上が、従兄弟が遺した手記に記されていた文章の一部を再構成したものだ。彼が失踪したのはたったの数年前なのだが、押し入れから発見されたこの手記は幾星霜の時間を旅したのかと疑ってしまうほどに朽ちていて、判別できない箇所があまりにも多すぎた。断片から察するに、従兄弟は変面師に魅入られ、そして拐かされたらしい。荒唐無稽ではあるものの、たしかに彼の実家が営む民宿に一月ほど流れの雑技団が逗留していた事実を確認することができた。人に馴染めず長く引きこもっていた従兄弟が失踪する直前、随分と熱心に経営を手伝っていたことも確認が取れている。しかし、好奇心に駆られ何度も入念に調べ直したが、銀夕座に『回廊』なる芸名の団員は在籍しておらず、あまつさえ変面師すら雇っていないというのだ。従兄弟ははたして何に魅入られ、生に挫折したこころを何に絆していたのか。  私は何度も繰り返し読み込んだ手記を閉じ、元あった箇所、押入れの隅の暗がりに押し込んだ。  触れてはいけないもの、引き戻してはいけないもの。初恋というのは往々にしてそういうものだ。従兄弟はたしかに、人生ではじめて、溌剌とした笑顔と生命力を民宿に遺し、そして恋を捧げた魔物とともに旅立った。  ふと顔を上げると、締め切った磨りガラスが紅く燃えていた。激しい夕立。なにかを隠したがっているふうに思えてならず、私はそっと埃っぽいカーテンを閉めた。きっとこの夕立が上がると、赤光が街を満たすのだ。
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