10.シナモンの香り

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10.シナモンの香り

 ミュンヘン男爵家の若き当主は、意外にも鋭敏でした。  腰痛のため病院へ行くと言って退勤時間きっかりに屋敷を去ったオデットに続いて、私がロカルドの私室に挨拶に伺ったときのことです。  彼は、私が右手に巻いた白い包帯を一目見て「怪我をしたのか?」と尋ねました。火傷に至った流れを細かに説明するわけにはいかず、私はとりあえず自分の不注意によるものだと説明しました。しかし、何故か彼の表情は晴れません。 「アンナ、ここへ来て見せてみろ」  嫌です、と断ることは出来ないので私はおずおずとロカルドの座る椅子まで近寄ります。上から見下ろすと、目元に隈が出来ているのが分かりました。普段、離れて見る分には気付かなかったので、新しい発見です。  ロカルドの手が私の手首を取って、包帯を剥がそうとしたので、思わず身を引きました。惨たらしい傷痕を彼に見せることは気が進みません。 「痛むのか?」 「いいえ…そういうわけでは、」 「じゃあ良いだろう。君が仕事中に怪我をしたのであれば、雇い主としてその程度を確認する必要がある」  有無を言わさぬ物言いに、私は再び手を差し出しました。  あまり見て楽しいものではありませんし、みみず腫れのようになった火傷痕は血が滲んでいるのでグロテスクです。  私は、彼が先ほど食べたサーモンのマリネを吐き出すのではないかと心配になりました。目を走らせましたが、嘔吐を受け止められるような袋はありません。いざとなれば、私は自分のエプロンで受け止めるべきでしょう。  するすると包帯が解かれ、痛々しい痕が表れました。 「随分と腫れているように見える。病院へ行くべきじゃないか?」 「家に帰って冷やせば問題はありません」 「誰か家で診てくれる人は?」 「一人暮らしですが、この程度の火傷は慣れています。もう痛みはありませんし、腫れも明日には治まるでしょうから」 「そうか……なら、良いんだ」  そういえば、と言ってロカルドは椅子から立ち上がり本棚の方へ歩いて行きます。彼の歩き方や話し方には、公爵家の気品がまだ残っていました。私はそうした所作を見るたびに、自分と彼との間にある大きな隔たりを感じます。  卑しい下女は、どこまでいっても下女なのです。  そして彼は、没落したとはいえ貴族の男。 「これを返そうと思って」  ロカルドが差し出したのは、オデットが騒ぎ立てたあのハンカチでした。  私は頭を下げて、洗濯されて綺麗に四つ折りに畳まれたハンカチを受け取ります。タバコの匂いはもう消え失せて、花のような衣料用洗剤の香りがします。 「このタバコと同じ銘柄を吸う女性を知っている」  ドキッとしました。  ロカルドは白いハンカチに目を落としたままです。  自分を庇ってくれた彼に感謝を述べるべきでしょうか。今更ではあるけれど、このハンカチが私のものだと知っているロカルドは、私が喫煙者であることにも気付いたはずです。  ロカルドの語る女とはおそらく、女王としての私のことです。シナモンの香るこのタバコはあまり有名なものではありません。少し上の年代には人気があったようですが、今はもう廃れて取り扱っている店も少ないのです。  私は、いつもまとめてその銘柄を安価に流してくれるタバコ屋の歯抜けの店主の顔を思い浮かべながら、ドキドキする心臓に意識が向かないようにしました。 「君がタバコを吸うとは意外だな」 「あ……もう、止めようと思っているんです。部屋の掃除をしていたら、たまたま箱を見つけてしまって…」 「なるほど。だろうね、純朴な君には似合わない」  私は曖昧に笑って誤魔化しました。  ロカルドの目には、純朴な下女として映っているようです。  さよならの挨拶を告げてハンカチをカバンに押し込んで、ミュンヘン邸を後にしました。足早に大通りまで進んで、タクシーが止まるのを待ちます。普段は節約のためにバスに乗りますが、今日は時間がありません。  彼が純粋で牧歌的と評する下働きの女が、これからタイトな黒い制服に着替えて男たちに鞭を振るうと知ったら、いったいどう思うでしょうか?  そして自らも、その(しもべ)であると知ったら。
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