19.翌朝

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19.翌朝

 仮病を使おうかと思いましたが、貧乏人として雇用先を失っては困ると、私は小さな勇気を振り絞ってミュンヘン男爵家へ出勤しました。 「おはようございます、オデットさん」 「はいはい、おはよう。旦那様を見たかい?」 「いえ…今来たばかりなので。不在なのですか?」 「居るはずなんだけど部屋から出て来ないんだよ。ルーベンが来るまでにアタシは制服の変更をお願いしようと思うんだ」 「制服の変更?」 「ほうら、このスカート。これじゃあ脚立に上って物を取っている時に下からスカートの中が丸見えだ。近頃王都じゃあズボンの着用を認めた例もあるみたいだし、アタシも…」  私はオデットの被害妄想がいよいよ大気圏を突破したことを察知して頭痛を覚えました。  きっとルーベンだってそんなラッキースケベは求めていないと思うのです。雇われたばかりなのに、同僚の老婆に悪い疑いを掛けられている彼のことをとても気の毒に思いました。  しかし、部屋から出て来ないというロカルドについては気になります。オデットに「様子を見てきます」と伝えて、私は我が主人の部屋へ向かってみることにしました。 「旦那様、アンナです」  ノックをすると静まり返った部屋から足音が聞こえ、手荒く鍵が開錠されました。わずかに開いた隙間からロカルドの顔が覗きます。 「君一人か?」 「はい。オデットが心配を────きゃっ……!?」  強い力でスカートを引っ張られて私は部屋の中に引き摺り込まれました。床に倒れたのに痛くないのは、ロカルドが私の下敷きになっているからでしょう。  私は「ごめんなさい」と謝りながら立とうと試みましたが、目の前にズイッと差し出された両腕を見て言葉を失いました。赤く擦れたロカルドの両腕には、なんとまだネクタイが結ばれていたのです。  冷や汗が背中を落ちるのを感じました。  恐る恐る見つめた青い双眼は少し怒っているようです。 「すみません、自分で解けると……」 「俺は君みたいにプロではない。こんなめちゃくちゃな結び方で解けるわけがないだろう。とりあえず解いてくれ」  言われるがままに結び目に手を掛けます。たしかに、適当に縛りすぎたようで、私はクシャクシャになったネクタイを片手に深く反省しました。  あの時は、暴走した自分が恥ずかして逃げるように帰ってしまいましたが、一人縛られたまま残されたロカルドのことを思うと申し訳なさで一杯になります。彼は自分で大人しく後処理をして不自由な両手を恨みながら眠ったのでしょうか?  しょんぼりと項垂れる私の肩にロカルドの手が置かれ、私は思わずギュッと目を閉じました。  とんでもない怒声が飛んでくる気配を感じて身構えます。もしかすると平手打ちあたりも炸裂するかもしれません。女性に手を挙げる男が良い男でないことは理解していますが、今まで勤めた屋敷では、そういった手段を教育として使う雇用主も居たのです。  しかし、いつまで経っても何も起こりませんでした。 「………?」  恐々と瞼を上げてみます。  ロカルドは顎に手を当てて、考える素振りをしていました。 「今日は出勤の日だったな?」 「? はい……そうですが…」  彼の言う出勤とはつまり、私が夜の館(メゾンノワール)で働くことを意味します。今日は火曜日なので私は女王として男たちの前に君臨する日でした。  頭の中で今日来るであろう客の顔を思い浮かべていると、ロカルドは「もう仕事に戻れ」と言って私の身体から手を離しました。私は怒りもせず、説教もしない我が主人を不思議に思いながらも、とりあえずオデットの要望を伝えてその場を去りました。
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