24.便箋と封筒

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24.便箋と封筒

 長かった冬にようやく春の気配が近付いてきました。  殺風景だったミュンヘン男爵家の庭に、私とルーベンは協力して花をたくさん植えました。文句が多いオデットも見違えるように華やかになった景色を眺めて、満足そうに座っていました。今日も今日とて、彼女の腰は不調のようです。  私とロカルドの奇妙な関係も、もはや日常の一部になりつつあります。相変わらずギリギリのシーソーゲームのような遣り取りを続けながら、私は一度は盛り上がった自分の気持ちがいくらか落ち着いたのを感じていました。  二重生活は身体に堪えますが、それも慣れです。  最近では新規のお客様も増えたので、色々と新鮮な毎日を送っていました。ミュンヘン邸で働くようになって貯金も随分と増えたので、次にアパートメントを探すときはもう少し広い部屋に引っ越せるかもしれません。 「アンナ、旦那様に庭仕事が終わったことを伝えて来ておくれ!」 「分かりました」  オデットのこうした命令にも、特に不快感を抱かなくなりました。以前は同列の使用人である彼女が私にあれこれ指図をすることが嫌でしたが、人とはそう簡単に変わるものではないのです。特にオデットのように歳を重ねてしまった老婆の場合、これから善良でよく働くメイドになれ!と言う方が難しい話なのでしょう。  とにかく、私の心は穏やかでした。  これは新しく植えた花々のお陰かもしれません。  ロカルドの部屋の前まで来たとき、私は扉が少し開いていることに気付きました。  中を覗き込むと、どうやら主人は不在のようです。開けっ放しの窓から強い風が吹き込んで、机の上のものを床に落としていたので、私は慌てて部屋へ入って窓を閉めました。  床に散らばった封筒やら書類を拾い上げるため屈むと、机の下に水色の便箋が一枚落ちているのを発見しました。宛名は知らない方の名前でしたが、形式的な挨拶文に続く文章を少し読んで私の心臓は止まりました。 「アンナ?」  二度目のショックに私は思わず飛び上がります。  勢いよく机にぶつけた頭を摩りながら顔を上げれば、部屋の入り口にはロカルドが立っていました。 「ごめんなさい、旦那様の部屋の窓が開いていたので書類が飛ばされていて……閉めようと……」 「そうか、ありがとう。アンナ…今日の夜は忙しいか?」 「夜ですか?」  オウムのように同じ言葉を返す自分の無能さに悲しくなりつつ、頭の中でスケジュールを確認します。忙しいも何も、今日は居残りでロカルドの相手をする日でした。  物言いたげな私の顔を読んで、ロカルドが口を開きます。 「いつもの残業は不要だから、一緒に出掛けたいんだ」 「……どこへ?」 「以前君が教えてくれた海沿いのレストランがあっただろう?あの並びに新しく店が出来たらしくてね。君さえ良ければ夕食にどうかと思って」  なぜ、と飛び出そうになったのを堪えました。  どうして我が主人は使用人の私をこのように食事に誘うのでしょう。もしかするとオデットやルーベンにも誘いを掛けた後なのでしょうか?  いつもなら能天気に二つ返事するところを、私は俯いて首を横に振ってみました。言うまでもなく、予定はありません。食事代が浮くと喜んで着いて行くべきだと分かっています。 「ごめんなさい……そういった誘いなら、お断りします」 「分かった。それなら今度───」 「旦那様、」  思ったより大きな声が出ました。  ロカルドが驚いたように私を見ています。 「仕事以外で私は貴方に時間を割けません。申し訳ありませんが、今後はそのような誘いを控えていただければと思います」 「…………そうだったな、気分を害してすまない」  私は踵を返してロカルドのそばを通り抜けます。  そのまま部屋を飛び出して廊下を走りながら、オデットに言われたことを伝え忘れたことに気付きました。  頭に浮かぶのは、先ほど見た水色の便箋の存在。  それは、縁談を受け入れる旨を記した手紙でした。
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