26.捻挫と早退

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26.捻挫と早退

「ルーベンさん、すみません…あと少しで終わりますので」 「いいや…大丈夫だよ。オデットの腰が弱いから君も大変だね。君の働きぶりには旦那様も感心している」 「そんなことありません」  私は言葉を返しながら新しい電球を受け取ります。  脚立の上はややグラグラしますが、通り掛かったルーベンが支えると申し出てくれたので幾分か恐怖は消えました。  私の頭はここのところおかしいのです。どういうわけか、寝ても覚めても私はロカルドのことを考えてしまいます。この脚立から落下して頭でも強く打てば、もしかすると治るのかもしれませんが。 「君は知ってるかい?」 「何をですか?」 「旦那様は結婚を考えているようだ。聞いたことがあるだろう?近々名家の令嬢と食事に行くそうだよ」 「………そうなのですか」 「海沿いに新しい店が出来たと教えたら、良い情報をありがとうと感謝されたんだ。きっとデートの場所に使うに違いない」  私は、中年のこの男が意外にも主人の色恋沙汰に興味があることに内心驚きました。普段は無口な運転手を装っているけれど、ルーベンもオデットのように噂好きなのでしょうか。  ロカルドの結婚に、私も興味がないわけではありません。  しかし、いくら関心を持ったところで彼は他人です。私に影響があるとすれば、今まで入っていた夜のバイト代が減るぐらいでしょう。次のアパートメントは広くてお洒落な内装を選ぼうと思っていましたが、どうやら難しそうです。  最後の一つを交換し終えて、ルーベンの手を借りて脚立から降りている時に私は誤って足を捻りました。鈍臭いくせに考えごとなどにうつつを抜かすからこうなるのです。 (………あぁ、もう……最悪だわ、)  表情には出さなくても私はひどく苛々していました。  禁煙をやめてタバコをまた吸い始めたからでしょうか?  親切なルーベンの肩を借りてオデットのところへ戻ろうとしていたら、運悪くロカルドと鉢合わせました。何処かからの帰りのようで、他所行きの格好をした彼の青い目が私とルーデンの間を往復します。 「アンナ、脚をどうかしたのか?」  案の定質問を受けたので私が何でもない、と答えようとした隣でルーデンが正直に「挫いたようです」と打ち明けました。今は彼の善人なところに腹が立つます。 「そうか。もう上がって良い、送って行こう」 「結構です」  強く断ったからか、ルーデンがビクッと震えるのが分かりました。たしかに彼からしたら主人の申し出を拒否する我の強いメイドに見えたのでしょう。 「なんてことありません。ただの捻挫ですから、歩くぐらいは一人で出来ます。お言葉に甘えて早く上がらせてもらいますが、家へは自分で帰れますので」  誤解を生まないように私は慌てて付け加えます。  一息で言い切るとペコリと頭も下げました。  なかなか言葉が返ってこないので、痺れを切らして顔を上げるとロカルドと目が合いました。確かめるように瞳を細めるので私は自分の嘘がバレるかハラハラしてしまいます。本音を言うと、足はとても痛いのです。 「ルーベン、代わってもらえるか?」  戸惑うルーベンにそう言ってロカルドは私の背中に手を回します。そのまま力が入ったかと思うと、次の瞬間私の身体は宙に浮いていました。  私は絶句して、自分を抱き抱える主人を見つめます。 「旦那様…な、なにを……!?」  私の言葉など完全に無視してロカルドはルーベンになにやら指示を出しています。頷いたルーベンがその場を去るのを見届けて、我が主人は私を抱いて歩き出しました。  大変居心地が悪い二本の腕の中で、私はロカルドの腕が折れないか心配になりました。もしかすると彼が今まで持ち上げた荷物の中で一番重たい物に値するかもしれないからです。  真っ赤な高級車が見えて、その助手席に慎重に私を下ろすと、ロカルドは自分も運転席に乗り込みました。  遅れて走って来たルーベンが私の手に荷物を押し付けてくれます。きっとオデットに場所を尋ねたのでしょう。そんなに私を家に送り届けたいなら、はじめからルーベンに頼むべきです。なんて言ったって彼は“運転手”として雇われているのですから。 「どういうおつもりですか?私は大丈夫です」  意地っ張りだと分かっていても私は尚噛み付いてしまいます。エンジンを掛けるロカルドの後ろでは、まさに夕日が沈もうとしていました。 「君と話をする口実が欲しかった。悪いか?」  私の回答を待たずに、車は静かに走り出します。  見慣れた横顔を見続ける余裕はありませんでした。
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