28.気配と悪寒

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28.気配と悪寒

「知っているか?昆虫の中には、交尾の際にメスがオスを食べちまう種類もいるらしい」 「………貴方、とうとうそんな話で興奮するようになったの?」  哀れみの視線を投げると男は慌てて首を振りました。  私は息を吐いて新しいタバコに火を点けます。帰り支度する男の横でぼんやりと考えるのは、明日また顔を合わせるであろう我が主人のことでした。  シナモンの香りが肺を満たしていくのを感じながら、目を閉じます。彼が言っていたことを何度も頭の中で繰り返してみます。私はロカルドを軽蔑し、見下し続けなければいけないようです。それはつまり、私が彼に与えたいものとはまったくもって真逆でした。  ロカルドが犯した罪、彼が婚約者へ取った態度は褒められるべきことではありません。私がもしも婚約者に裏切られ、挙げ句の果てに金のために寄りを戻そうと詰め寄られたら、発狂してしまうかもしれません。  ロカルド・ミュンヘンはどうやら相当クズな人生を歩んで来たようです。  正直言うと、私たち使用人の前で見せる彼の態度からは想像のつかない過去でした。私の知り得るロカルドは、人を使うのが下手で、雇用主にしては腰が低く、金持ちにありがちな高慢さを持たない男でした。  強いて言うなれば少し性癖に問題がありますが、それはまぁ個人の自由なので特筆すべき事項ではないでしょう。誰だって秘密の一つや二つはありますから。 「また来るよ、君はこの店のエースだな」 「エース?」 「固定客がいっぱい居るんだろう?そういえば、ついさっきも店に入るか悩んでいる男が居て、君を指名するか迷っていたよ」 「どういうことかしら……?」 「いや、表に女王の情報を書いているだろう。写真はないけれど派手な金髪の女はどんな女だって聞かれたんだ」  私は少し前に店の受付で言われたことを思い出しました。  受付の男は「アンナは居ないか?」と電話があったと言っていたのです。ゾワゾワと悪寒が背中を駆け上がりました。 「………その男は、どんな見た目だったの?」 「うーん、暗いしなにぶん夜だからあまり顔までは見えなかったな。脚を引き摺っていたような気がするけれど」  私は「そう」と答えたきり、言葉が続きませんでした。  このような特殊な店で働いている以上、厄介な客は付きものです。今までだって暴力的な男や、無理強いする男、プライベートをしつこく詮索してくる男はたくさんいました。  だけれど、何故かその時は落ち着かなかったのです。  悪い予感というものを感じたと言えば良いのでしょうか。  姿の見えない何者かの気配に怯えながら生活するのは随分と精神的に堪えます。私は、接客した男が去るのを見届けてから自分も帰り支度を終えて、タクシーに飛び乗りました。  バスはまだ走っている時間だったのですが、どうにも乗る気になれませんでした。どこの誰か分からない二つの目がまるで背中に貼り付いているように感じたのです。  おかしな話でしょう?  女王である私が怯えるなんて。  家に着いて暗い部屋に明かりを灯しても、気持ちは晴れませんでした。自分の部屋に居るのに安全だと思えないのです。その日は電気を消さずに眠ることにしました。  こんな時、誰か、誰でも良いから誰か、心の支えになる人が居れば良いのに。「怖いから一緒に眠って」とお願いしたら、何も言わずにただそっと手を握って隣で抱き締めてくれる人が居れば。  愚かな私はそう願いながら一人、夢の中に落ちていきました。
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