03.ロカルド・ミュンヘン

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03.ロカルド・ミュンヘン

 私は雇用主に関する情報に三度ほど目を通し、小さく溜め息を吐きました。  ミュンヘン男爵という名前の雇用主は週五日の勤務にしては十分過ぎる給料を与えてくれるようです。しかし、私が憂鬱になっている理由は金額面ではありません。  ミュンヘンの姓には聞き覚えがあったのです。  それは、私が勤める夜の店に足繁く通ってくれる常連客の苗字でした。当たり前ですが客がどこに住み、何をしているのかといった個人情報を私たちは知りません。  店に現れる奴隷たちが女王のプライベートに踏み込めないように、女王もまた、奴隷が奴隷であること以外は知らないのです。 (身なりは良かったけれど……まさかね)  今まで町を歩いて、奴隷を見掛けることは何度かありました。しかし私にはこの眼鏡があります。加えて、昼と夜の私はまったく異なる化粧を施していますから、気付かれることは先ずないでしょう。  ないと、信じていました。 「よく来てくれた。人手が足りていなかったから助かる」 「………アンナ・オースティンです。明日からよろしくお願いいたします…旦那様」 「ロカルド・ミュンヘンだ。君の他にベテランのメイドが居るから、分からないことは彼女に聞いてくれ。最近この辺りに越してきたばかりなんだ。しばらくは彼女と二人で回してもらう」 「承知いたしました、」  私は深く頷いて、歩き出す雇用主の後を追います。  ロカルド・ミュンヘンでした。  完全にロカルド・ミュンヘンその人でした。  華やかな金色の髪に透き通るような青い目、こちらに威圧感を与える長身。そして、私が何度も喜ばせた美しい身体。私はその肌の質感すら思い出せそうで、ブルッと小さく身を震わせました。  どうやらロカルドは気付いていないようです。  私は頭の中で押し問答を繰り返していました。ここで雇用を断ることも出来ます。このままロカルドが都合良く気付かない保証など何処にもありません。  たとえずっと気付かないとして、私は昼間は主人として仕える男の肉棒を夜は無情に踏み付けることが出来るのでしょうか?考えただけで(おぞ)ましいことです。私のことを「女王様」と呼んですべてを委ねる彼を、どんな目で見れば良いのか分かりません。  私は、手のひらを握って拳を作りました。  断る決心をして唾を飲みます。 「あの、旦那様……私は──」 「アンナ。君が来てくれて本当に助かった」  私は口を閉じました。私に感謝を述べるロカルドの笑顔は弱々しく、私の個人的な理由で跳ね除けることを申し訳なく感じてしまったのです。  思えば、ロカルドはいつも寂しそうでした。  彼は世間一般が家族や恋人と過ごすであろうイベントの夜も、特に変わりない様子で店を訪れました。お互いのプライベートは知りませんが、最初に店に訪れたときに目立っていた強い警戒心や尊大なプライドといったものは、この一年の間に随分となくなったと思います。 「知っていると思うが…俺の父、ダルトン・ミュンヘンは王都で犯罪を犯した罪人だ。直接的に関与していない俺は無罪となり爵位を落とすだけに留まったが、もしも君が何か不快に思うなら、この仕事を断ってくれても良い」  ハッとしました。  ミュンヘン。そうです、ミュンヘンといえば数年前に世間を騒がせたあの公爵家の名前ではありませんか。  私は今朝、バスに乗る直前に立ち寄った露店で売られていた新聞のことを思い出しました。拘留されていた公爵の有罪を知らせる記事、あれはミュンヘン公爵のことだったのかもしれません。採用されて浮き足だっていた自分を情けなく思います。  私は自分を見下ろすロカルドの青い双眼を捉えました。 「……ご心配には及びません。仕事は仕事ですので」  ホッとしたように薄い唇が弧を描きました。  どこまでもこの奴隷に甘い私は、女王失格でしょうか?
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