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30.予想外の来客
事件は、突然起こりました。
私はその日もいつものようにミュンヘン邸での仕事を終えた後に店に出勤しました。三人ほどの相手を終えて、タバコも切れたことだし帰ろうかと受付に打診したところ、了承を得ることが出来たので家へ急いだのです。
寝不足による疲れが溜まっていたからでしょうか。
ここのところ警戒してバスに乗るのを避けていたのに、ついつい、身に染み付いた癖でバス停へ向かってしまいました。運悪くそのタイミングで目当てのバスは止まっていたので、何も考えずに飛び乗ったのです。
そうしてバスは走り出し、私は目を閉じました。
最寄りのバス停に着く前には目覚めましたが。
古びたアパートメントに到着すると、玄関の前で鞄を床に置いてしっちゃかめっちゃかになった鞄の中から鍵束を取り出します。手こずりながらもなんとか解錠し、ふらっと一歩足を踏み入れた時、自分の影より大きな影が目前に伸びていることに気付きました。
後ろを振り向いた時にはもう、遅かったのです。
「…………ん、」
どれぐらい眠っていたのでしょう。
薄らと開けた瞼の向こうは見慣れた自分の部屋です。
しかし、勢いよく開いた双眼は、この部屋に存在し得ない男の姿を捉えました。大声が出そうになりましたが、口に張り付けられたテープがそれを許しません。
そこには、ルーベンが立っていました。
「アンナ……あぁ、ようやく目が覚めた!今からテープを外すから、どうか叫んだりしないでおくれ。僕は君を傷付けたくはないんだ…!」
手元に光るナイフをチラつかせるので、私は黙って頷きます。
それは間違いなく、今日私がミュンヘンの屋敷で会った運転手のルーベンでした。あの中年の太った男です。オデットがあそこまで彼を警戒していたのは正解だったのだと、今更ながら私は理解しました。愚鈍な私だけが、彼を善人だと信じ続けていたのです。或いはロカルドもまだ、気付いていないのかもしれませんが。
テープが剥がされたので私は深く息を吸います。
しかし、吐き出す前に首筋に冷たい刃が押し付けられたので思わずヒュッと喉が鳴りました。
「あ…あ、ごめん、君が叫ぶのかと思って…」
「……叫びません」
「そうか……本当に?」
私は一度だけ頷いて見せます。
「分かったよ。アンナ、どうか驚かずに聞いてほしいんだ…僕は…僕は君に恋してる!そして君もきっと同じ気持ちなんだろう…!?」
「え?」
「隠さなくて良いよ…!いつも僕を見る君の目はなんだか慈愛に満ちていて、唇はまるでキスしてほしそうだった!」
残念ながら勘違いだと言わざるを得ません。
そんなことをはっきり伝えれば何をされるか分からないので口には出来ませんが、私はこの中年男がオデットを凌駕する妄想癖の持ち主であることを知りました。
「あの、それはもしかすると……」
「アンナ!恥ずかしがらないで…!君はいつだって魅力的、だけど…どうして、どうしてあんな場所で仕事を…!?」
彼の言う“あんな場所”が夜の館を指していることはすぐに分かりました。受付や客が揃って知らせてくれた怪しい男の正体はきっとルーベンだったのです。
そう言えば、ロカルドはルーベンが工具で足を怪我したと知らせてくれました。私に男の存在を告げた客もまた、その男が足を引き摺っていたと言っていた気がします。ああ、私はなんて勘が鈍いのでしょう。
「お仕置きが……必要なんだね?」
「………なに…?」
「僕が居るのに、他の男とそんなことをするだなんて。しかも、旦那様もあの店に通っているんだろう…!?」
私はハッとして思わず首を振りました。
瞬間、強い衝撃を頬に感じます。
「嘘を吐くな!僕に、僕に嘘を吐くな…!見たから知っているんだ、ロカルド・ミュンヘンがあの店の顧客だって…僕は知ってるんだぞ……!」
唾を撒き散らして話すルーベンはひどく興奮しているようでした。私は叩かれた頬がジンジン痛むのを感じながら、自分が取るべき最善の策を考えようとしましたが、寝不足の頭は上手く回らず、もう何もかも嫌になりました。
私が我慢すれば丸く収まるのでしょうか?
それならば、それで良いかもしれません。
「旦那様とも寝てるんだろう?君はいったいどこまで淫乱なんだ…!残念だ、ガッカリだよ…!!」
何も否定することは出来ませんでした。
私はたしかに夜の館で働く女王でしたし、ロカルドにサービスをしながら悦に浸れるぐらいにはふしだらな女でした。
「アンナ……あぁ、こんな形で君とそういう関係になりたくなかったけれど、君が…君が悪いんだよ」
カチャカチャとベルトを外す音が聞こえます。
どうにもならないと分かっていても、せめてもの抵抗で私は目を閉じてみます。音はどこまでも私を追ってきますが、視界を塞げば何も見えなくなりました。
もう、何も見たくないのです。
「誰にも言わないで…!仕事だって辞めちゃダメだからね、君が辞めたり…誰かに僕のことを言ったら、君の身に何をしてしまうか分からない!」
「………言わない…言わないから、」
「君がバラすとミュンヘン男爵だって終わりだ!若い美貌の男爵がとんでもないマゾ野郎だって町中に知られるぞ…!」
私は黙って首を振ります。
自分の身の安全よりも、真に恐れていたのはそちらでした。
のしかかってきたルーベンの身体を受け止めながら、私は自分が初めて男と身体を重ねた時のことを思い返していました。
私はたしか十八で、貴族の間では初夜権なんてものが残っていましたが、私の初夜は呆気なく自分の雇用主の手によって奪われました。夢もなく、愛もないままに。もう相手の顔すら忘れていたのに、最悪な気持ちだけはまだ十分憶えてます。
私が女王になる決意をした理由。
それは、権力に驕る男たちを踏み躙るためです。
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