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31.嵐の夜
ルーベンは二時間ほど私の身体を好きに遊んで、部屋を去って行きました。帰り際に笑顔で「また明日」と告げて。
私は頭の中でロカルドと交わした挨拶を考えていました。屋敷を去る際に彼が「また明日」と言ってくれることが、私は密かに好きでした。それは自分がぽっかりと一人で穴に沈んでいるわけではなく、次の日も誰かと繋がっていると思えることが出来たからです。
守るべき秘密がまた一つ増えました。
ロカルドとの秘密は上書きされたのです。
千切れそうな身体を動かして浴室へ移動し、湯を捻りました。熱いシャワーが私にこれは現実なのだと教えています。しばらくの間、何もすることが出来ませんでした。
もしかすると、私がミュンヘンの屋敷を辞めて、夜の仕事も辞めて、何処か遠い場所に引っ越しでもしたら、ルーベンはもう追って来ないのでしょうか?
だけど、そうしたらロカルドは?
彼の秘密はどうなるのでしょう?
私は思考を止めて再び目を瞑ります。
時間が解決するのではないか、という希望的観測がふわふわと浮かんで消えました。いつかルーベンが私に飽きて、もしくは罪の気持ちに苛まれて、こんな馬鹿げた脅しを止めてくれるかもしれません。
我ながら愚かな考えですが、そうでも思わないと私の心はバラバラに壊れてしまいそうだったのです。
◇◇◇
「アンナ?」
不機嫌な声に顔を上げました。
オデットが箒を片手に私を睨んでいます。
「どうしたんだい?今日は随分と夢うつつだね」
「……そんなに良いものではありません。少し気分が悪かったので、休憩していました」
どれぐらい座り込んでいたのか、どうやら私は部屋の掃除をしている間に床の上でうずくまっていたようです。表現は不適切ですが、私の変化にオデットが気付いたことは意外なことでした。
「旦那様も今日は朝から出掛けているけれど、夕方から嵐が来るみたいだから早く上がりたいね。アンタからも言ってみてくれないかい?」
「嵐が来ても雷が来ても…定刻は変わりません」
「ほんっとに頭が堅いねぇ!アタシは五人の子供が家で待ってるんだ。アンタみたいに一人でダラダラ生活してるわけじゃあないんだよ!」
怒り出したオデットから離れて、また掃除に戻りました。
子供が居ることがそんなに偉いのでしょうか?
誰かを愛して、その人の子を産みたいと思ったことがないので分かりませんが、私は私のために精一杯生きています。何も知らない老婆がそれを叱責するのは違うと思いました。
昨日ルーベンから受けた屈辱は、しっかりと身体に残っていました。何処かに逃げたい、誰かにただ静かに背中を撫でてほしい。そう願って止まないのに、逃げる場所も抱き締めてくれる相手も居ないので、ただ黙って目を閉じます。
このままいっそ何も見えなくなれば良い。
そう強く願うのです。
「あ、旦那様が帰って来た!」
オデットの声を聞いて私は窓の外を見遣りました。
少し降り出した雨の中をロカルドが足早にこちらへ向かって来ます。
老婆に急かされて私は仕方なく我が主人の元へ向かいます。悪天候のためか、電気が灯っているはずの廊下もどんよりと暗い印象を受けました。
「旦那様、アンナです」
「ああ……入ってくれ」
ノックをして部屋に入ると、濡れた髪をタオルで乾かすロカルドの姿がありました。青い双眼が私を捉えて不思議そうに丸くなります。
「どうした?何か問題でも?」
「あの…夕方から嵐が来るそうです。洗濯物を外に干しっ放しで来たから、オデットが早く帰らせてほしいと…」
「分かった。君も帰るか?夕食さえ作っておいてくれれば、あとは自分で何とかなるから大丈夫だ」
「承知いたしました」
その時、再び部屋にノックの音が響き、ルーベンが顔を出しました。
私は無意識のうちに自分の身体が強張るのを感じます。この男は、昨日私の家に押し入ったのです。彼は私とロカルドの秘密を握っていて、それをネタに私を強請っているのです。
「すみません、会話が少し聞こえたもので…アンナは私と方角が一緒なので私の車で送っていきましょうか?」
「そうなのか。それは安心だな。どうだ、アンナ?」
「い…いえ、旦那様、私は自分で……!」
「遠慮は要らないですよ。旦那様もその方が安心だと言っている。準備が出来たら呼びに行きますね」
私は縋る思いでロカルドを見上げます。
だけれど、声を出すことは出来ませんでした。
帰り支度をするように言われ、ルーベンと二人でオデットの元に向かう間も、自分を見る彼の視線を嫌というほど感じました。自意識過剰で済めば良いのですが、そうではないのです。
早く帰れると知ったオデットが喜ぶ中、私はルーベンに誘われて車へと向かいます。後部座席に座り込み、走り出した車から小さくなっていくミュンヘン邸を眺めている間も、膝の震えは止まりませんでした。
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