32.女王の涙

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32.女王の涙

「………っん…!」  部屋に入るなりルーベンは私の口を塞いでねちっこいキスをしてきました。このような口付けを受け入れるぐらいなら、私は喜んで道路に溢れる雨水を飲むでしょう。 「アンナ、さっきは旦那様に僕たちの関係を報告しに行ったんだろう?付き合うことになったと皆に知ってほしいんだな…?」 「違います、オデットに頼まれて──」 「大丈夫だよ。女は愛する男が出来たら周りに祝福してほしいものらしい。旦那様もきっと僕たちが恋人同士になったことを喜んでくれるはずだ」  ロカルドがこのことを知ったら。  考えただけで私は心臓が縮む思いでした。女王であるべき私がこのような下衆な男に良いようにされているなんて、恥ずべきことです。きっとロカルドも幻滅するでしょう。 「言わないで……お願い、旦那様には…」 「おぉ、秘密にしたいのか?そうだなぁ、結婚式を挙げるまでは秘密にするのも良い。どうせロカルドは愚鈍な能無しだ。君の腹が膨れ始めたらようやく気付くだろうさ」 「………何を言っているの?」 「アンナ、男たるもの、跡継ぎを残す使命がある。俺は健康で若い女に自分の子を産んでほしいんだ。君はその点ぴったり!風俗で働く売女だが、まぁ仕方ない」  ニタッと笑って私の肩に手を置いたルーベンを見て、全身の毛が逆立つのを感じました。  この男は、最終的に私に自分の子供を産ませる気なのです。一時的な慰めならともかく、永遠に、それこそ朽ちて死ぬまで永遠に、ルーベンと添い遂げるなんて地獄のようなことに思えました。 「いやよ……!貴方はなにか勘違いをしているわ、私は貴方のことなんて好きじゃない。夜の仕事だって生活のために始めたことで、私の趣味じゃないわ!」 「好きじゃないだって……!?」  ルーベンは打ちのめされたように愕然とした表情を浮かべました。両手を広げて天を仰ぐ姿は芝居染みています。  しかし、次の瞬間にはぐるりと回った目玉に怒りを滲ませて私に掴みかかってきました。十本の指が痛いほど肩に食い込むのを感じます。間近で見る男の顔は狂気に満ちていました。  その時、来客を知らせるベルが部屋の中に響きました。  息を潜めていると控えめなノックの音が続きます。  上にのしかかるルーベンが目で「出ろ」と指示を出したので、私はよろける足で玄関へ向かって扉を押し開けました。 「………どうして、」  外はもう大雨になっていて、叩き付けるような雨粒に打たれながらロカルド・ミュンヘンが立っていました。  せっかくタオルで拭いた黄金の髪が台無しです。高級そうなスーツはもう布地が縮んでしまったかもしれません。呆然とする私の背後で「早く扉を閉めてこっちへ来い!」とルーベンが怒るのが聞こえました。  ロカルドは何も言葉を発さず、私のわきを擦り抜けて部屋の中へと足を踏み入れました。私はその背中越しに、驚いて後ろ手を突くルーベンの姿を見ます。 「俺が……判断を誤った」  呟くように小さな声でロカルドはそう言いました。  言い訳を探すようにルーベンが「これは違う」「誤解なんだ」と喚く様子を前にして、我が主人は腰を屈めてその使用人と視線を合わせます。 「ルーベン、お前を解雇する。この場から去れ」 「なにを…!お前、お前の秘密を知ってるぞ!アンナが働く風俗店に入り浸る変態野郎だってな…!言いふらしてやるからな!!」 「好きにして良い。俺はお前の言う通り、人様に知られたくない面があるし、今まで見せていなかったが──」  そこで言葉を切って、ロカルドはルーベンを殴り付けました。大きな音を立てて中年の男は床に倒れ込みます。私はびっくりして言葉を失いました。 「結構気が短いんだ」 「おま…おまえ、よくも殴ったな……!」 「主人に殴られたことも是非とも伝えてくれ。その代わり、俺もお前がアンナの家に不法で侵入したこと、無理矢理彼女を傷付けようとしたことを報告する。雇用主として、犯罪を見過ごすわけにはいかないだろう?」 「………っくそ!落ちぶれた貴族風情が!」  捨て台詞のようなその言葉を最後に、ルーベンは逃げるように私の部屋を飛び出して行きました。開きっ放しの扉を閉めてロカルドが戻って来たとき、私は自分が泣いていることに気付きました。  流れる涙の止め方が分からないので下を向きます。  ポタポタとカーペットの上に染みが出来ました。 「アンナ……」  遠慮がちに伸びてきた手が涙を拭いました。 「私は、泣いていません」 「…………、」 「女王たるもの…つねに、強く逞しく……」 「もう良い」 「私は……奴隷の慰めなど、要りません。だって私は気高くて…誰の助けも必要としない、絶対的な……」 「アンナ、もう良いんだ」 「………っ!」  二本の腕の中で私は声を上げて泣きました。  こんな風に誰かに抱き締められて、大きな声で子供のように涙するのは随分と久しぶりで。もしかすると、初めてだったかもしれません。  夜が深まって、太陽が白い朝を連れて来るまで。  私はロカルドの胸に身を預けて眠りました。
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