34.コーヒーの味

1/1
前へ
/73ページ
次へ

34.コーヒーの味

 色々なことがあった一日でした。  シャワーを浴びながら、ふっと息を吐きます。  ルーべンにされたことは簡単に忘れられそうにありませんが、住み込みで働けるのは有難いことです。私の事情を知ったロカルドであれば、夜間の外出を不審がることもないですし、面倒な説明をする必要もありません。  夜の館には、今日行った際に念のためルーベンの件を話しておくべきかもしれません。今後あのような男が現れた場合、未然に防ぐためです。  しかし、私はまた店で働けるのでしょうか?  本音を言うと少し恐ろしい気持ちもあります。  見せかけのプライドをいくら高く持っても、強い女の化粧を施しても、その中身までもは偽れません。私は力もなく、頭も回らない下働きの女です。今回は主人の手によって助けてもらえましたが、こんなラッキーはいつまでも続くわけではないのです。  化粧をし終えて、脱衣所から出ようとしたとき、ガラッと勢いよく扉が横に引かれました。 「悪い……君は焼却炉の方へ行ったと聞いたんだが、」 「いいえ、オデットは時々嘘を吐きますから。もう終わりましたので先に出ますね」  足早に去ろうとしたタイミングで、運悪く角を曲がってオデットが姿を現しました。思えばロカルドを押し込んで何食わぬ顔で挨拶をすれば良かったのですが、私は気が動転してしまって、我が主人もろとも脱衣所に引っ込みました。  乱暴な足音と共に「アンナー!」と私の名前を呼ぶ声がします。  湿気ゆえに眼鏡が曇って視界が真っ白です。これでは何も見えない、と思っていたらひょいと眼鏡を取り上げられました。私は妙な悪戯をする主人を睨みます。  何がおかしいのか、瞳を細めて笑うと、ロカルドは身を屈めて私の額に口付けました。少し驚きましたが、キスなんてこの男にとっては挨拶程度の意味しか持ちません。  分かっているのに、私は期待するように目を閉じました。  そうすればまた夢の続きが見られる気がしたのです。  柔らかな熱が額から瞼に降りて、私は自分とロカルドの唇が重なるのを感じました。彼がいったいどんな顔をしているのか気になりましたが、目を開いて確かめる勇気は出ませんでした。 「………っん」  唇が首筋を這ったので、思わず変な声が出ました。  オデットがすぐそこに居るのに、私たちは命知らずにも程があります。メイドとの関係を疑われて困るのはきっと雇用主である彼の方でしょう。  右手の甲を押し付けて声を殺していたら、それに気付いたロカルドが私の口元に自分の指を持って来ました。黙ってそろりと舐めてみます。他人の指を舐めるのはなんとも変な気分でしたが、そうした行為の間にどんどん硬くなる彼自身に触れていると悪い気はしませんでした。 「アンナ……少しだけ、」 「旦那様、もう行かなければいけません」  一瞬にして絶望を宿す双眼を見据えて、短く唇を重ねます。  彼の日課である苦いコーヒーの味がしました。  こんな状態の主人を置いていくのは申し訳ないことですが、今は昼なのでまだ私が特殊な仕事をする時間ではありません。伸びてきた腕を擦り抜けて私は廊下へ出ます。  ロカルドは少しの間、住み込みで働くように言いました。  それはつまりこの屋敷の中に夜は二人きりになるということです。男女が二人で夜を明かすと聞くと、何やら下衆な考えを抱く人もいるかもしれません。  私たちの関係はなにか変化するのでしょうか?  願っているわけではありませんが、知りたいとは思います。
/73ページ

最初のコメントを投稿しよう!

135人が本棚に入れています
本棚に追加