35.奴隷と女王

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35.奴隷と女王

 ミュンヘン邸における私の生活は、思ったよりもはるかに快適でした。  ロカルドは自分の私室の隣の空き部屋を私のために明け渡してくれたので、客室にあったベッドや小さな棚をそこに運び込みました。願ってもいない形で、私はそれまでの部屋よりも広い部屋を手に入れたわけです。  何処にあったのか立派な化粧台も用意してもらって、流石に申し訳なくなりました。ここまでしてもらったところで、この屋敷に私が滞在するのは短期の予定です。次の休みの時にでも、私は引っ越し先を探し始めるつもりでした。  ロカルドは住み込みを希望しましたが、私の頭にはまだ、以前見た手紙のことがあったのです。  自分の存在が主人の恋愛の障壁になることは、彼に仕える使用人としてあるまじきことでしょう。ロカルドの思いやりと、人を気遣う優しさは有難いことですが、それにいつまでも甘えているようではダメなのです。 「足りないものはないか?」  一通り部屋を整えて、どうしても必要な衣類などは二人で私の部屋から取り寄せたので、何も不自由はなさそうです。  頭を下げて礼を言うと「大したことではない」という答えが返って来ました。私からすると十分大したことに値します。今まで雇用主から、これほど親切な扱いを受けた覚えがなかったからです。  オデットはロカルドのことを無知だと笑っていましたが、私はここ最近、彼はもしかすると聖人の類なのではないかと思っていました。  もちろん私たちが二人でこっそり行っていることや彼の個人的な性癖は、聖人君主からは程遠いと理解しています。それどころか未婚かつ恋人同士でもない男女が二人きりで暮らすなど、聖職者が知ったら泡を吹くレベルかもしれません。  だけれど、そうでもないと説明が付かないのです。  ロカルドは何故ここまで私に良くしてくれるでしょう? 「君はまだあの店で働くのか?」  ぼんやり考え込んでいた私にロカルドが問い掛けました。 「………そうですね、店の中は安全です」 「ならば、送り迎えだけでもさせてくれ」 「不要です。バス停はすぐそこですし、私だって五歳の子供ではありません。今までだって一人で生きてきました」 「俺は君の奴隷だ」 「………!」 「もっと、利用してほしい」  真摯な目に思わず息を呑みました。  奴隷である以前に彼は私の仕えるべき主人なのです。  いいえ、たしかに出会いは奴隷と女王という形でした。どっちが先行するのか分かりませんが、私がロカルドの女王になるのはあくまでもプレイの間だけです。とうとう日常とプレイの区別が付かなくなったのかしら、と疑いましたが、真相は私にはよく分かりませんでした。  とにかく、これ以上断り続けても両者譲らず平行線になりそうですし、私に何かあった場合はたしかにメイドが不足して当主である彼が困るので、黙って受け入れることにしました。
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