37.ホールケーキ

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37.ホールケーキ

 その夜、私とロカルドは小高い丘の上に建つ小さなレストランで食事を取りました。  ヴィラモンテで生まれ育った私ですら知らないそのレストランは、隠れ家的な雰囲気を持っており、どうやら時間を決めて貸切営業をしているようでした。  いったいいつの間に我が主人はこんな店を予約していたのだろうと不思議に思いつつ、昇進を祝ってくれる彼の心の広さに再び感銘を受けました。もしかすると夜間は女王としても働く私への労いの意味もあったのかもしれません。 「アンナ、どうだ?口に合うか?」 「とても美味しいです。気を遣わせてすみません…」 「俺から誘ったんだ。畏まらないでほしい」 「でも、」  そのとき、店の奥から店員が何かを両手に抱えてこちらに向かって来るのが見えました。  私は黙って下を向いて口を閉ざします。  パチパチと跳ねる音にいったい何が運ばれて来たのかしら、と顔を上げて思わず言葉を失くしました。だって、そこには私が見たことがないぐらい可愛らしい丸いホールケーキがあったのです。 「………旦那…様?」 「誕生日おめでとう、アンナ」 「え?」 「君の履歴書を見ていて気付いたんだ。勝手な真似をしてすまない。今は住み込みで働いてくれているから、嫌でなければ俺にも祝わせてくれれば……ごめん、気分を害したか?」  ロカルドは心配そうに私の顔を覗き込みます。  ケーキを運んで来た店員が頭を下げて去るのがぼんやりと見えました。なぜぼんやりなのかと言うと、私の両目を透明な涙でできた膜が張っていたからです。  私は混乱していました。  自分が嬉しくて泣いているのか、それとも驚きで泣いているのか分かりません。とにかく、涙はどんどん落ちていって、これ以上無様な顔を晒すわけにはいかないと眼鏡を外して顔をハンカチで拭いました。  クリアになった視界にケーキが映ります。  白いクリームに覆われたスポンジの上にはたくさんの赤いイチゴがちんまりと載っています。小人のような人形二匹に挟まれるように「お誕生日おめでとう」と書かれたプレートが配置されていました。  私はこんなとき、どんな顔をすれば良いのでしょう?  嬉しくて、恥ずかしくて、もうよく分かりません。 「自分でも忘れていました…ありがとうございます」  大人になって誕生日ケーキを食べることになるとは思いませんでした。店の客からケーキをもらうことはあっても、私のプライベートを知らない彼らは誕生日も知りません。 「実は、ホールケーキを食べるのも初めてです……うちの家ではカットされたケーキしか買ってくれなくて、」  ロカルドはただ「そうか」と頷いただけでした。  しばらくの間、私の嗚咽が止まるまでは静かな沈黙が流れました。お店の中を流れるゆったりとしたクラシックの音色に耳を澄ませながら、ハンカチを当てて目を閉じます。  こんな風に優しくされるのは良くありません。  私は十分、勘違いしてしまいそうです。  ロカルド・ミュンヘンはどうしてこんなに意地悪なのでしょう?使用人をここまで丁寧に扱えば、彼らは調子に乗ってしまいます。  もしかすると自分は彼にとって特別なのではないか。  そうした妄想に囚われてしまいそうで。
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