39.ウイスキー

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39.ウイスキー

 三月も終わりに近付く頃には、ヴィラモンテの山々に春の花が咲き始めました。  イザベラとアドルフはすっかり仕事を覚えて一人前の使用人となりました。オデットもサボりを決め込むわけにいかないと反省したのか、腰を折って日々掃除に励んでいます。  とても平和な日々が続いていました。  私も先週末に素敵なアパートメントを見つけたので、今日にでもロカルドに告げて近いうちに屋敷から引っ越す予定です。その方がきっと良いでしょうから。  ロカルドは、以前にも増して忙しそうでした。  三食を家で食べることも少なく(これに関してはオデットなんかは「洗い物がなくて良い」と嬉しそうでしたが)、すれ違いが続いて一日中顔を合わさない日もありました。  しかし、私は彼に引っ越しの件を伝えなければいけません。  今までお世話になっていた礼も兼ねて、以前お客さんにもらったウイスキーで晩酌に誘う予定でした。 (………そろそろ良いかしら?)  使用人も捌けて静かになった廊下を進みます。  ロカルドは夕食を食べて来たそうで、帰るなり自室に篭ってずっと机に向かっていました。イザベラたちが帰ったのを見計らって今日の業務報告をしに行った際も「分かった」と答えてすぐに書類に目を戻したので、相当に忙しいのだと思います。  二回のノックのあとで「入れ」と声が返ってきます。  恐る恐る中を覗くと、ロカルドはまだ仕事中のようでした。 「後の方がよろしいですか……?」 「いいや、今終わったところだ。どうした?」 「あの…もしお時間がありましたら、お酒でも…」  言いながら語尾は小さくなっていきました。  今まで熱心に働いていた主人の部屋に突撃して、飲酒に誘うなんて我ながら馬鹿馬鹿しい考えです。それに私は、彼がウイスキーを嗜むのかどうかも知りません。ワインやシャンパンの方が良いと言われたらどうしよう、とドキドキしながら俯いていたら、近付いてきたロカルドが私の手からボトルを取り上げました。 「エバートンが取り扱っているものだな。いただこう」 「あ、ごめんなさい……貰いもので、」 「良いよ。グラスを用意してもらえるか?」  私は頷いて厨房へと急ぎます。  愚鈍な私は気付きませんでしたが、あの白い花はエバートン公爵家の家紋でした。そんなものを差し出してミュンヘンの息子である彼と飲もうなんて、情けないほどに馬鹿です。  銀の盆の上に透明なグラスを二つ並べて、冷凍庫にアイスが残っていたのでそれも皿に盛りました。以前、別の客がウイスキーはバニラアイスと合うと言っていたのを思い出したのです。 「最近、家のことを任せっきりですまない」  グラスを手に持ったまま申し訳なさそうに言うロカルドに私は首を振りました。 「いいえ。お忙しそうなのは見て分かります。それに、イザベラたちは本当に優秀でよく働いてくれますから」 「それは良かった、安心したよ」  ほっとしたように目を閉じるロカルドを見つめました。  私たちはここ暫く、秘密の時間を過ごしていません。彼自身が忙しいので仕方がないことです。女王として働かないくせに屋敷に居座っている私は、ただの怠惰な下女と言えるでしょう。 「旦那様、実は……」  引っ越しの報告をしようと主人の方へ顔を向けたとき、私はロカルドが私がプレゼントしたネクタイを付けていることに気付きました。  しかし、嬉しく思ったのも束の間の話で、視線はシャツの襟に付いた赤い色に釘付けになりました。それは紛れもなく、女の唇を彩るルージュでした。  話そうと思っていた言葉が何処かへ行ってしまい、鼻の奥がツンとします。迷子になった思考がバラバラと崩れる中、私は気持ちを落ち着かせるために酒を流し込みました。ウイスキーは薬のような味がします。 「アンナ?どうした……?」 「…………ないですか?」 「え?」 「私には…魅力がないですか?貴方に冷たくして、拒絶し続けなければいけませんか?」 「アンナ……?」  戸惑いを露わにしたロカルドの青い瞳が揺れています。  お酒のせいなのか、ショックで壊れた頭のせいなのか、分かりません。リボンを解いて、シャツのボタンを外していきます。勢い余って何個かボタンが飛んで行きましたが、もうべつに構いません。  下着を取り払うと、冷たい空気に身体が震えます。  スカートに手を掛けたところで、ロカルドが両手で顔を覆って私の方を見まいとしていることに気付きました。  ツカツカと歩み寄ってその手を取ります。  脱いでいる私よりも赤くなった顔がありました。 「旦那様、見てください。目を逸らさずに見て…!」 「アンナ…飲み過ぎだ。これ以上はやめてくれ」 「私が女王だから?いつもツンツンして貴方を見下していた方が良い…?」 「頼む、もう服を着るんだ」 「私は貴方の優位に立ちたいわけじゃないわ。冷遇なんてしたくない。女王様になんか…なりたくない!」  言ってしまいました。  私は自ら、その強い仮面を引き剥がしたのです。 「ロカルド…貴方が私を弱くしたの」  溢れる涙と込み上がる嗚咽で、顔がぐしゃぐしゃでした。  面倒な女と成り果てた私の腕を取ってロカルドは自分の方へと抱き寄せます。短い沈黙のあと、我が主人が「責任を取る」と呟いたのを聞きました。
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