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49.約束
前日にグスコ侯爵が王都から到着したらしく、その日のロカルドは朝から緊張した面持ちでした。今日は昼食も夕食も準備は要らないそうで、あからさまに嬉しそうにするオデットの隣で私も頷きました。
「アンナ、あとで部屋に来てくれるか?」
「………承知いたしました」
今日は寝坊でもしたのか、まだメリッサはミュンヘン邸に来ていません。彼女が居たらきっと在らぬ疑いを掛けられてしまうので、少しホッとしました。
私はロカルドの元へ向かう前に化粧室へ寄って行きます。
鏡を見ると覇気のない憂鬱な顔をした女がこっちを見ていました。私が男だったとして、一ヶ月禁欲生活をしたとしてもこんな女を抱きたくはないでしょう。
(思い上がるところだったわ……)
そばに置く地味な女。そういった意味では最適だと言えるでしょう。家柄の良いお嬢様のようにあれこれと気遣う必要はなく、金さえ払っておけば周囲に言いふらしたりもしません。
私はもう一度鏡を見て、リボンを真っ直ぐにしてから化粧室を後にしました。これで何も文句を付けられることはないはずです。
「入ってくれ」
二度ほどノックをしたら主人の声が返ってきました。
私は黙ってドアノブを回して部屋に足を踏み入れます。
ロカルドはまさに出掛ける間際という出立ちで、ジャケットの上には外套を羽織っていました。良い香りがするのはこれからメリッサに会うためでしょう。
どういった用件で呼び出されたのか聞こうとしたとき、ロカルドの方が先に口を開きました。
「アンナ…どうか、誤解をしないでほしいんだが」
「………?」
「メリッサがこの家に泊まった日、俺たちの間に何かがあったわけではない。今日はグスコ侯爵がいらっしゃるから、メリッサも一緒に帰るだろう」
「えっと……はい」
それが何か?と思わず聞きそうになりました。
メリッサがミュンヘン邸に住み着いても、彼女がロカルドと寝ていても、その父が彼女を連れて帰っても、私にはどうだって良いことです。
だって私は下働きの下女に過ぎません。
ここ数日でその認識は強固なものとなりました。
しかし、結婚するというのに王都へ帰ってしまうなんて、メリッサはそれほどまでにヴィラモンテが気に入らなかったのでしょうか?
「また、式の日取りが決まりましたらどうぞ教えて下さいませ。私たち使用人一同、一生懸命取り組みますので」
「式とは何のことだ?」
「旦那様の結婚式でございます」
私は文字通り、ロカルドの口がパコッと上下に開いたまま沈黙が流れるのを見ました。何度か口元が動いて、言葉を放とうとしたようですが、とうとう諦めて主人は黙り込みます。
その背後にあるガラス窓の向こうで、運転手のアドルフが足早に近付いて来るのが見えました。予定していた時間が迫っているのかもしれません。
「……今日、少し遅くなるかもしれないが会えないか?」
話があるんだ、とロカルドは言いました。
躊躇する私に「君を迎えに行くから」と言葉を足して、主人は心配そうに私と目を合わせます。
私は黙って頷きました。
話があるのは私も同じだったからです。
しかし、その日ロカルドは来ませんでした。
何時間待っても、来ませんでした。
私はゆらゆらと揺れるキャンドルの灯りを吹き消して、一人で丸くなって眠りました。
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