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68.別れの挨拶
やがて、空気が軽くなり春の花が役目を終える頃。
私は夜の館での勤めを辞めました。
「寂しくなるなぁ。お客様みんなに挨拶したんだって?」
「ええ。これで彼らは自由でしょう?」
机の上に肘を突いて尋ねる受付の男に私は笑い掛けます。
「どうだかね。彼らは永遠に君という支えを失ってしまうんだ。ちょっと可哀想な気もするけどなー」
可哀想。なるほど、そういう考え方も出来るのですね。
たしかに私が店を辞めることを告げた際、王都とヴィラモンテを行き来する商人の男は泣いていました。それはひとえに奴隷からの解放を喜んでいるのだと思っていましたが、どうやら違うようです。
ふむ、と頷く私に向かって男はニヤリと笑いました。
前へ乗り出すと興味津々で口を開きます。
「覚えてるか?俺は君が恋してるって見抜いてた」
「あら。そんなこと言っていたかしら?」
「はぁーつれないな。長い付き合いになっても、結局本音は語ってくれずか。それで、誰なんだ?」
「なにが?」
「君はこれから皆の女王様から、誰か一人だけの女王になるんだろう?相手のこと、少しは教えてくれよ」
それぐらい良いだろ、としょぼくれる男を前に私は吹き出してしまいました。
彼は私が何処かの貴族に買われて、同じような衣装を着て鞭を振るうと思っているのでしょうか?なるほど、たしかにそれも面白い人生のように思えます。この先何かあれば、そういった可能性も考えてみてみ良いかもしれません。
「ごめんなさいね。もう女王にはならないの」
「おっと、そうなのか?」
「ええ。私のことを世界一幸せなお姫様にしてくれる相手を見つけたから」
「なんてこった……最高だな!」
拍手を送ってくれる受付の男に笑顔を返して、私はさよならの挨拶を告げます。何度も何度も通ったこの地下の店を訪れることは、きっともう無いでしょう。
地上への階段を駆け上がって重たい扉を開くと、淡いグラデーションの掛かった夕焼け空の下、私を待つ赤い車を見つけました。
「別れ話は出来たか?」
「そうですね。少し寂しいですけど」
ロカルドは黙って膝の上に乗った私の手を握ります。
私は、自分がこうした店で働き始めた経緯を、彼にはすべて話して伝えていました。初めて受けた貴族からの耐え難い屈辱、それでも生活のために下女として働き続けなければいけなかったこと。心を守るために取った女王という選択を、後悔したことはありません。
理解してほしいとは望んでいません。
ただ、ロカルドには知ってほしいと思いました。
「アンナ、久しぶりに海沿いのレストランへ行こう」
「あら…良いですね。私もそんな気分です」
「決まりだな」
ひとつ頷くと車は走り出します。
私は窓を開けて、春の香りがする空気を吸い込みました。
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