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70.奴隷が主人になりまして
五月のある晴れた日、私はミュンヘン邸に引っ越しました。
束の間の間に寝泊まりしていた部屋が、私の新しい棲家となったのです。ロカルドは家具の移動などしていなかったので、私が使わせていただいていた鏡台やベッドなどはそのまま残されていました。
「メリッサさんもこの部屋に?」
うっかり飛び出た質問に、狼狽えるような顔をした後でロカルドは首を振りました。
「メリッサには俺の部屋で眠ってもらった。この屋敷にはベッドが三つあって、俺のものと君が使っていたもの、残る一つは夜勤で働く使用人のために用意したものだ」
使用人のベッドは使われていなくて埃を被っていたから、と説明するロカルドの声が段々と小さくなります。あの夜、どうやらロカルド自身が私のベッドを使ったようです。
べつにどちらでも良いのですが、私は少し意地悪をしてみたくなりました。なるべくジトッとした目を作ってロカルドを見上げます。
「彼女が貴方のベッドを使ったことの方が嫌です」
「すまない……」
「今度はきちんと断ってくださいね。私の旦那様は誰でも彼でも優しくし過ぎだと思います」
「俺が優しくしたいのは君だけだ」
ムッとして言い返すロカルドに今度は私が狼狽える番です。
私は赤くなった顔を窓の方に向けて、これから必要となるあれこれについて口に出して確認していきました。ロカルドの提案で、ミュンヘン邸には今まで以上に使用人が増えることになったのです。具体的には夜の門番や料理に特化したシェフなど、本来であれば最初から雇っておくべきだったそれらの担当者を今から募集する必要があります。
私は仕事を続けたいと主張しましたが、ミュンヘンに嫁いだ私が使用人として働き続けるのは他の人たちも気を使う、というオデットの強い意見があったので、手が空いた時だけ手伝う程度になりました。きっと彼女なりの優しさなのだと思って受け取っておきます。
「これで君も、ミュンヘン男爵夫人だな」
「……なんだか変な気分です」
結婚式を挙げる予定はありませんが、ロカルドの希望で写真は撮って残すことになりました。
「これは…俺の母親が使っていた机なんだ」
そう言って彼が懐かしそうに触れたのは、私の部屋に運び込まれた鏡台でした。話を聞くと、それはミュンヘンの元を去った三人目の母のものではなく、ロカルドを産んだ一人目の母が残した家具だそうです。
彼の父であるダルトン・ミュンヘンが三度の結婚をしたことは聞いていましたが、彼女たちの話をロカルドが進んですることはなかったため、私は黙って耳を傾けます。
「俺が幼い頃に屋敷を出て行ったから、あまり記憶はないんだが……鏡に向かって化粧をする母の背中は覚えている。下手な歌をずっと歌っていて、俺はその歌が好きだった」
私はどうしてか、ロカルドが泣いているような気がしました。
下を向いた彼の表情までは見えなくても、そう思ったのです。
机の上に置かれた手の上に、自分の手を重ねてみました。
そっと握り込むと、確かなあたたかさが伝わります。ぎこちなく伸ばした腕で大きな主人の背中を抱き寄せました。きっと、私が泣いていたら彼はこうしてくれるでしょうから。
「旦那様、この春が終わったら夏が来ます。そしてすぐに秋になって葉の色が変わり、夜が長くなった頃には冬が来るのです」
微動だにしないロカルドの身体を抱えて、頭を撫でます。
何度も何度も。彼がもう一人ではないと伝えたくて。
「私は、そうした移り行く季節を貴方と過ごしたいのです。これからずっと二人で、一緒に」
「………それは、是非とも永く生きたいな」
ロカルドが顔を上げて、揺らぐ青い双眼が私を捉えました。
私はもう一度強く抱き締めて、慣れ親しんだ主人の匂いを吸い込みます。女王だった頃の私が見たらきっとさぞかし驚くことでしょう。奴隷の前で屈託なく笑う私を情けないと嘆くかもしれません。
でも、べつに良いのです。
彼は私の、たった一人の「主人」になったのですから。
End.
◆ごあいさつ
これにて本編は完結です。
ご愛読ありがとうございました。
本作はアルファポリスさんの恋愛大賞に参加しておりまして、もしお気に召されたら投票いただけますと嬉しいです。
なんとこの話には番外編が何話か付随しています。内容はほぼピンクなので拍手特典とさせていただきます。ロカルドが嫌われたくない話と、ロカルドが分からせたい話です。
59話に登場した親切な道案内は『初夜を~』のシーアとルシウスです。二人とも元気そうです。
来週中に現代恋愛の連載を始めます。
ご縁ありましたらどうぞ。
ではでは。
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