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第一章 狐狸の寺 1
第一章 狐狸の寺
月は山の端に落ち、烏は塒(ねぐら)に籠もる時分――
燭台の炎が、怪しく階(きざはし)の擬宝珠(ぎぼし)を照らしていた。
寝苦しい真夏の夜のこと。
蘭香が鼎から薫(くゆ)る後涼殿の簀子で、二藍の直衣を緩めて優雅に着こなす貴公子と、生真面目に束帯姿でかしこまる男が二人、蝙蝠(おうぎ)で蚊を払いながら並んでいた。
「まだかな?」
「月が傾く頃なのでしょう? 焦りは禁物です」
生真面目そうな男が答えると、時を計るように蝋がねっとりと垂れていく。
「本当に現れると思うか」
「さあ……」
落ち着きなく蝙蝠を開けたり閉めたりしている男は、源史唯(みなもとのふみただ)。臣籍に降った今上の愛息である。侍従の職を賜っているので、人は「王侍従君(おうじじゅうのきみ)」と呼ぶ宮廷きっての優美な貴公子である。
瓜実顔は帝によく似、瞳は涼やかで品がある。額は賢さを表すように少し広めで、鼻はすっと通っているおり、顔全体によく均衡が取れている。元来の明るい性格と人付き合いが好きそうな気性が容貌に現れているせいか、女房たちが垣間見るたびに吐息を漏らす憧れの的である。
「まだ刻限ではございません。もう少しお待ちを――」
そしてもう一人の落ち着き払った男は、卜部豊宗(うらべのとよむね)。神祇官に属する先の大宮主(おおみやじ)の息子で、亀卜に優れた卜部家の秘蔵っ子である。女のように面立ちが細く美しく、神祇官らしい冷たく鋭い気を放つ。ただ、表情から感情は読みにくく、常に冷静な白濁とした瞳は時に屍のように生気がないようにも、月の影の余韻にも見える。俗世からどこか遠く、側にいても遠く彼方にいるようなそんな距離感のある人物だ。髪が銀髪のように白いのは子供の頃からだ。
「静かすぎるな」
「さようございますね」
二人の間にそれ以上、会話らしい会話はなかった。ただ、傍らの太刀を意識する。
夜も遅く、後涼殿には人の気配がない。生暖かい風が首筋を撫でては通り過ぎていくばかりで、月が傾き出すともう物音すらしなかった。
後涼殿の主である尚侍、藤原範子は既に休み、御帳台の中のはずである。今夜は安心して眠れているだろうか。
王侍従は、もう一口酒を口に含むと、闇に包まれて昏く沈んだ前庭を見下ろし、直衣の袖を直した。そして冠の紐を引き締めながら、脇に置いてある太刀を今一度確認する。
豊宗が杯を置いた。
「緊張されていますか」
「当然だよ」
当たり前のことを聞くなとばかりに王侍従は豊宗を見たが、相手は蝙蝠の中で余裕を失っている友人に苦笑しただけで、優雅な所作を崩す様子はない。宮中の神事を司る卜部家の人間は皆、一様にこんな風で、人めいておらず、浮き世離れしたところがあった。
「嫌な役を引き受けてしまったなぁ」
王侍従は気休めに和琴をかき鳴らしたが、鬱々としたものは消えることはなかった。
「お断りになれるお立場ではありませんから、仕方のないことです」
王侍従は尚侍(ないしのかみ)、藤原範子(ふじわらののりこ)の猶子である。つまり範子は王侍従の義母に当たる。
そんな範子から後涼殿に呼び出され、「物の怪退治」を頼まれた。後涼殿では「それ」は十日も前から目撃されているという。始めは女房らが見かけ、一昨日の深夜に範子の寝所にまで現れた。範子は驚き恐れたが、公に騒ぎ立てることをしなかった。そんなことをすれば面白おかしく噂されるだけでなく、逆に騒ぎを起こしたと批判の対象にもなりかねない。思慮深い範子は気丈にも物の怪のことを帝に訴えるのをやめ、自分で解決することにしたのである。
そんなわけで、頼もしい二十歳の義理の息子、王侍従に、物の怪退治に白羽の矢が立った。
王侍従は引き受けたくなかったというのに、気丈な義母が怖がっている姿が気の毒で、しぶしぶ「分かりました。私がなんとかいたしましょう」と安請け合いしてしまったが昨日――。
さすがに自分一人の手には余ると、今日になって豊宗を呼び出した。身分の差はあるが、豊宗の父は義母の実家である藤原北家、藤原良公邸に出入りしていて、宮中ではなくその一条の屋敷で育った王侍従は、よく不思議な力を持つ豊宗少年と三つ目の蛙や四つ足の鳩などを捕まえて一緒に遊んだ仲で、幼なじみと言っていい。
「その義母上が見たという物の怪は、還城楽(げんじょうらく)の姿だと聞くがどう思う?」
「還城楽? 雅楽の唐楽のですか?」
「ああ。その還城楽だ。それが、中庭で妖しく舞っていたというんだ。人魂とともにね」
話を聞いただけでは、にわかに信じられないことだ。
人魂は見間違いということもあり得ることだが、還城楽は、雅楽の演目の一つで、唐の玄宗が韋皇后を殺して、夜、帰る姿を舞楽にしたものとも、蛇を好んで食べる胡人が蛇を見つけて喜んでいる様を舞ったものとも言われている。どちらが正しいか王侍従は知らなかったが、どちらにしろおどろおどろしい内容だ。眉間にこぶのある鬼の顔のような赤い面は口が上下に動き、左手は剣印を結んで右手には赤い桴(ばち)を持つ。見間違える類のものではない。
「それが舞っているのですか? この後涼殿で?」
「そうらしい。音もなく黙々と玉砂利を引きずる音だけを立てながらな。それが義母上の寝所にまで現れるとはゆゆしきことだ」
「舞い手は男ですか、女ですか」
「背格好から男らしいよ。母上いわく、これは義母上を恨む生霊なんだそうだ」
「生霊――ですか……それが本当ならやっかいですね」
女の生霊ならありそうな話であるが、男に恨まれるとは尚侍、藤原範子らしい。というのも、範子は一癖ある有名な策士で、今上の即位に尽力した人物の一人である。そのせいで、多くの貴族、皇子から亡き先帝まで恨みを買っているのは周知の事実。己の胸に手を当てても、思い当たる点はいくつもあることだろう。
「なんだ?」
そこに聞き慣れた鈴の音がした。
漆黒の闇からのそっと紅の首輪だけを光らせて現れたのは、帝が太宰府から献上された黒猫、黒曜(こくよう)である。清涼殿と後涼殿は渡殿一つ隔てただけなので、帝の寝所から逃げ出して、夜の散歩を楽しんでいるのだろう。
王侍従は、この猫を下賜してもらうことになっていた。唐から難破船でやってきたというこの猫は気高く、性格が難しいからだ。帝も手を焼いている様子で、猫の機嫌を取るのにいつも忙しい。
それでも王侍従はこの猫を気に入っていた。ひょいと高欄に登り、それが誰の殿舎かなど関係なく、爪を研ぎ、長い黒毛を夜風に吹かれていたりする。しかも、腹が空いた時だけ、このように飄々と現れて、王侍従が常に隠し持っている干し魚を貰おうと、「ちょっと」だけ媚を売る。
初めて帝の御前で出会った時もそうだった。
黒曜は誰にも媚びずに帝の茵(ざぶとん)に座り、ツンと澄まして帝に飼ってもらおうと必死の他の猫たちを冷笑していた。人間じみた瞳をし、賢そうな少し高めの鼻を持つ、どこか達観した趣のある若い猫である。王侍従は一目見て、その猫が気に入った。他の猫とは比べようもない品があり、墨のように真っ黒で、黄金の瞳はキラキラと輝いて見えたからだ。
「美人だなぁ、黒曜は」
王侍従は盃を置くと、気まぐれな友人、黒曜の首筋を撫でてやる。
猫は王侍従の称賛にも当然だとばかりの顔をして、脇息の上に座って魚をもっと寄越せと手を伸ばした。
「『後宮の佳麗三千人 三千寵愛在一身』。この詩は、まさしく君のことだね。主上も黒曜のことは特別に可愛がっているんだって?」
白居易の詩の一節を口ずさむと、まんざらではないらしく、ごろごろと喉を鳴らした。王侍従は猫を抱き上げると、猫の腹の匂いを、大きく呼吸するように深く吸い込む。猫好きの至福の時ではあるが、猫の爪がぐっと腕に入る。しかし、猫好きはそれぐらいではへこたれない。もう一度、猫の腹の匂いを嗅ぎ、仮面のように覆いかぶさっている猫をそっと剥がして元のいた脇息の上に戻してやる。
「ありがとう。癒やされたよ」
黒曜は爪を立てずに王侍従の顔を叩き、欄干へと移動してしまった。それを見ていた豊宗が苦笑して言う。
「還城楽は出てきませんね。本当の犯人はもしや王侍従君ということはありませんか。あなたは、舞の名手ですからね。尚侍を驚かそうと還城楽を披露したのではありませんか。でなければ、寝所などに入れませんよ」
「悪いが、ここ十日ほどは、帝のお相手で宿直していた。証人はたくさんいる。お前こそが犯人ではないか。通う女もいないから、夜は暇だろう?」
「私も暇ではありません。天文から未来を予測しなければなりませんから星を観ることが多いのです」
「そんなことは陰陽師に任せておけばいいじゃないか」
豊宗は苦笑する。
「王侍従君こそ、主上のお相手などと言って、本当は帝のお猫さまたちの相手をされているのではありませんか」
父、光孝天皇は王侍従以上の猫が好きだから、何匹も清涼殿で飼っている。帝は気の合う王侍従にその世話をさせているのだが、むろん、仕事はそれだけではない。
「馬鹿を言え。帝のお話の相手になったり、碁を打ったり、取り次ぎをしたりいろいろあるんだ、侍従っていう仕事にはな」
最近では、人払いした後に帝を批判し、政治的に裏から手を回そうする先帝の后、二条太后に関する愚痴を聞くのが王侍従のもっぱらの仕事であるが、それは言えないことであるので、お猫さまの世話をしていると自嘲ぎみに言っているだけのことである。
「しかも黒猫ばかり王侍従君は贔屓していると女房たちの噂ですよ」
「それはそうだろう? 丸めた姿は弓のようで、濡れ羽色の黒毛は艶やか、赤い衣の紐を首に巻いてやれば、都のどの姫君よりも美しい」
「さようで」
豊宗は呆れたように、受け流したが、そんなことは王侍従にはどうでもいい。
戻ってきた黒猫の背中を通り過ぎざまに撫でてやれば、干し魚目当てに膝に乗る。王侍従は懐紙から魚をもう一切れくれてやると、猫は腕に頭をこすり付け、尾をピンと立てて通り過ぎる。まるで「触りたければ、触らしてやってもいいけど?」と言っているようだ。王侍従の緊張していた心がほころんだ。
もうすぐ日は西に沈みきり、朝日が昇ることだろう。五更といったところか。
きっと還城楽など現れやしない。
豊宗が、張った護符の効果が早くも出たに違いないとも王侍従は思った。しかしそれは楽観でしかなかった。酒が尽きて猫が腹を出して眠り始めた頃に、急に空気が冷たくなり、朝霧が深くなった。王侍従は思わず太刀を握り、卜部豊宗は瞠目した。
「何か来ます」
「ああ。霊感などなくても感じるよ」
深い霧の中から出てきたもの――それはまさしく還城楽で真っ赤な大きい鼻の面、赤い袍で、怪しげな面の内の顔を隠し、静かに片手に桴を、もう片手に蛇の人形を持って舞う。
王侍従と豊宗は簀子でしばらく固まったように動けずにいた。
だが、すぐに我に返ると、欄干を飛び越えて襪(たび)のまま庭に下り、迷わず鞘を払い、霧の中へと走り出した。
「いたぞ!」
王侍従はそう叫ぶと、すっと還城楽の影を斜めに斬った。
が、袖を掠っただけで還城楽は、飛び退り、霧の奥へ奥へと逃げようとする。もう一歩踏み出た王侍従は、袈裟掛けに太刀を振るったが、相手は桴で受け、すっぱりとそれは二つに斬れた。その切れ味に、斬った王侍従も驚き、還城楽もまた引き時を悟ったのか、太刀を握る王侍従の肩を押して、朝霧が混じる闇の中に消えた。
残っているのは、朝霧と太刀が割った桴の一部だけ――。
「これはなんでしょうか」
切り落とされた面には漢字が三つ残っていた。
「之落英」
それだけで、豊宗は理解したのか、眉を寄せる。豊宗の父は遣唐使として大陸に渡ったこともある。漢文には優れた一家だからだ。
「楚辞の離騒の一部です」
「というと?」
「おそらく唐の国の詩、『朝には木蘭の墜露を飮み、夕には秋菊の落英を餐す』の「之落英」の部分です。簡単に言えば、疑わしいことなどなに一つしていないのに、主君から見捨てられ失脚した男の詩です」
「失脚した男の詩……」
王侍従は面の一部を受け取ると、じっと見つめた。
豊宗の言葉から推測すると、還城楽がなんらかの政治的恨みを抱えているようだ。ただこれは、人の仕業なのか、あるいは本当に物の怪の仕業なのか、そこのところはまだ不明だ。
「お前はどう思う? 豊宗?」
「朝霧が濃く、よく見ることもできませんでした。ですが、生きているにしろ、死んでいるにしろ、尚侍さまをよく思っていない者の仕業なのは確かでしょう」
「俺もそう思う。また現れると思うか」
「必ず」
どうしてそう思うのか、豊宗は言わなかったが、王侍従にもそんな気がした。すうっと引いていく霧の真ん中で、欄干から彼の肩に飛び移った猫の首筋を撫でながら、王侍従は還城楽が消えた庭の向こうを見つめた。
朝霧が晴れると、徹夜の王侍従は義母、範子に呼ばれて廂(ひさし)の間の茵の上に座った。簀子で話すには少々問題のある話だったからだ。
「どうでしたか? 夜中に物音がしましたが、物の怪を成敗してくれましたか」
どうやら範子は眠れなかったらしい。扇から覗く瞳は赤く、隈ができている。普段は御簾越しで、今日は几帳越しなので、王侍従はあまりまじまじと義母の顔を見たことはないが、切れ長の瞳は勝ち気でこぼれる長い髪は優雅。几帳から覗く青紅葉の襲色目は上品でいて華がある。皆が、彼女の衣を真似たがると同時に、一緒にいると中宮の御前より緊張すると言う。年は四十路。王侍従は、年齢を女人に尋ねたことはないが、それくらいだろう。
「確かに俺たちも還城楽を見ました」
「それで?」
「斬りましたが、手応えはありませんでした」
「生霊なのです。太刀では斬れませんわ」
尚侍は、御簾の向こうの簀子に控える卜部豊宗の方を見る。
「あなたの見解はどうですか?」
豊宗は平伏していたが、おもむろに顔を上げると、迷いのない瞳を開ける。
「恐れ多いことですが、中に入ってもよろしいでしょうか」
「どうしてです?」
「後涼殿は神祇官や陰陽寮が以前から護符を張って固く守ってあります。それなのに、昨夜、再び還城楽が現れた。何かの間違いが、この後涼殿内にあるということではございませんか」
女房たちの間から緊張が走った。
男も顔負けの策士である範子もまた、それは尤もなことだと思ったのだろう。部屋の中に入ることを豊宗に許したので、女顔の美男、卜部豊宗は、亀の甲羅を香炉で焼いて、部屋の中の不吉な方角を占う。
そして王侍従には分からない切れ目を亀の甲羅に見ると、難しい顔をしてから、王侍従が肘を掛けていた脇息を問答無用に取り上げ、北東の梁の下にそれを置き、足を乗せて何かを掴んだ。
「人形だ――」
きゃあと叫び声を上げそうになった女房が慌てて自分の口を押さえる。
「かせ、豊宗」
王侍従は豊宗に手を出して人形を受け取った。橿(かし)でできており、杭が打ち込まれていた。衣装は絹の女もの。範子が以前、着ていた衣の端切れで作ったのか見覚えがあった。確実に還城楽の狙いは範子で、彼女は呪われていることになる。王侍従は深く唸った。
「これは主上に申し上げた方がよいかと思います」
「騒ぎを起こしたくはないのです」
「義母上、還城楽がこれからも出れば噂はすぐに広まりましょう」
「それでもなりません。絶対に。絶対にです」
頑なに拒む範子を王侍従はそれ以上説得することはできなかった。眠気も強かったし、黒曜を清涼殿に返しに行かなければならない。帝が目覚めれば、すぐに猫の行方を問われるからだ。
「では」
「主上になにも言ってはなりませんよ」
「分かりました。ご報告いたしません」
王侍従は疲れた足を清涼殿に向けた。
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