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5 「それで結局、鬼に逃げられたのじゃな」  そういうのは、ぽりぽりと菓子を帝の横で食べる人のなりの黒曜だ。王侍従は帝に平伏する。 「申し訳ございません」 「そなたが悪いわけではない。不甲斐ない蔵人たちの責任じゃ」  帝は黒曜とそっくりな口調で言った。この穏やかな人には珍しい厳しい口調で内心、かなり怒り心頭なのが分かるので、王侍従は頭を更に下げて床につけるしかできない。 しかし、「手柄」を立てた黒曜は足を帝の前で投げ打って、その膝に頭を乗せながら菓子を食べている。 「あの、子供の鬼はどうなった?」  帝が一人捕らえた鬼のその後を訊ねて、王侍従はさらにぎくりとした。塗籠に閉じ込めてはずなのに、いつの間にかいなくなっていた。それも大きな失態だった。しかし、黒曜は事もなげに言う。 「我が逃がしておいてやったぞ」 「は? 今、なんと言った……」 「だから、我が逃がしておいてやった」  王侍従はその額を指で叩いてやりたくなったが、帝は不思議そうに黒曜を覗き込んだ。 「なにゆえ、そんなことをした?」 「あれは無実じゃ。あれが二条太后に捕らえられたゆえに鬼たちが怒って此度のことをしたのではないか。二条太后に憑いてその欲望のまま罪を犯させた」  王侍従がにじり寄った。 「どういうことだ? 黒曜」 「だから、二条太后は此度の計画のため鬼の子を拐かし協力させておった。が、鬼たちはそれに怒って取り戻しに来て、二条太后を破滅させたのじゃ」  王侍従はなるほどと思う。 「もし、そなたらが内裏にあの若い鬼の子を留めおけば、再びあやつらはここに現れるだろう。逃がしてやるのが順当。そうではあるまいか」  たしかにそうだ。鬼から恨まれたくなどない。 「逃がす時、鬼の娘っ子が言っておった。二条太后が還城楽事件を起こしたのは、後涼殿に人の注目を集めて、隣の清涼殿を探るためだったとな。そして娘っ子に対する二条太后の要求は増え、金集めのための卜いまがいをやらせ、狐狸などと通じさせたとか。それに鬼どもが怒ったというわけじゃ」 「だが……黒曜。なにゆえ、鬼は帝を――」  黒曜はぬくりと起き上がると、帝のために用意された白磁の茶碗に入れられた白湯をぐいと飲んで鼻で笑う。 「妖かしは人の欲望が好きだ。二条太后に憑いたのはそのためじゃ。そして、太后が望んでいたことにちょっと手を貸してやったというわけよ」 「なるほど」 「むろん、成功などさせてやる気はなかったじゃろうがな。だから二条太后は破滅した。そういうわけじゃ。妖かしを甘くみるとそうなる」  帝が「黒曜はえらいのぉ」と頭を撫でてやると、人の形なのに、猫のようにその手にすり寄って少し得意げに王侍従を彼女は見た。 「それで、主上。これからどうするおつもりですか……」  帝はしばし、黒曜の頭に手を置いたまま考えてから答える。  「高瀬宮は酒によって欄干から落下して亡くなったということになるのぉ。これは動かせぬ。清涼殿で死んだのだからな。どう考えてもそれ以上の言い訳は考えつかぬ。そして、二条太后だが……鬼に憑かれていたとはいえ、自ら朕の呪詛を企んでいたことは事実。ただ、息子を亡くしたのはあわれじゃ。考慮してやらねばならぬ……」 「御意」 「二条太后を典薬寮の呪禁師に診せよ」 「かしこまりました」  王侍従は拝命した。  そして「いやだ、いやだ、帝と一緒がいい」という甘えた黒曜を王侍従は肩に担ぐと、さっさと清涼殿を後にする。ここのところ、怪奇ばかりを目にしているせいか、少し変わった少女を王侍従が担いでいても誰も気を止めている間はない。女房たちは、皆、厨子の前で経を唱えて珠珠を鳴らすのに忙しいいらしく、御所は静まり返っていた。 「王侍従君」  牛車まで行くと、聞き慣れた声に呼び止められた。豊宗である。 「待たせたか」 「いえ……」  相当待ったという顔をして否定した。 「まぁ、牛車に乗れ」  人の目を気にして始めこそ乗ろうしなかったが、遠慮なくずんずんと黒曜がいの一番に乗り込み、上座を占領すると、勇気づけられたのか王侍従の次に牛車に乗り込んだ。 「なにかあったのか」 「二条太后に呼び出されました」 「正気に戻っていたか」 「はい……それで亀卜を頼まれました」  王侍従はなにを二条太后が知りたかったのか見当がつかずに豊宗を見る。 「出家すべきか否かを卜いました」 「どうなった?」 「十回行い、十回とも出家が『吉』と」  そうなるだろうとは思っていた王侍従だが、あの強気の二条太后がついに出家するとは実感が湧かなかった。 「貞親親王の方はどうか。犬神が憑いてからだいぶ経つが……」 「典薬寮が呪禁師を派遣し、食事を取れるまでに回復したとのこと。二条太后もあの時に引き返していたら、こんなことにはならなかったものを――」 「欲には勝てなかったのかもしれません」  息子と養子のうち、どちらかを玉座に座らせたい。その願いは先帝崩御で失われた。今上さえいなければ、再び我が手に栄華が戻ってくると信じていたのだろうが、その欲望が破滅を招いてしまった。 「陰陽寮によれば、還城楽事件の折に埋められたとみられる呪具が清涼殿の軒下から見つかりました。また公主さまが言っていた通り、青銅の短剣も渡殿近くに落ちていたとのこと」 「鬼は追跡するのか」 「陰陽寮はそのつもりのようです」  黙っていた黒曜が笑った。 「捕まるはずもない。今頃は別の悪人に取り憑いていいように操ってなりを潜めているだろう」  それはもっともだ。一番いい隠れ場所である。 「帝が無事でなによりです。公主さまが妖かしの蟲を見つけてくれたおかげですね」  豊宗の言葉にらしくもなく黒曜ははにかんだ。 「別にぃ」  その言い草が可愛くて、王侍従が黒曜を抱きしめると、天邪鬼は半妖の公主さまは暴れた。 「ここで下ろしてください。続きはお二人で」  豊宗は早々に退散し、牛車から消えたから、堂々と王侍従は黒曜を可愛がろうとして振り返る。そこにいたのは、一匹の黒い猫。 「お前な……」  それでもにこりと王侍従はすると、猫を抱き上げ、その腹の匂いをすううと吸い込んだ。猫の腹の匂い以上よりよい香りはどこにもない。 「かわゆいなぁ、黒曜は」  王侍従は袖から櫛を取り出して微笑んだ。 了
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