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王侍従は猫を返したら、帝より賜っている曹司で一休みしようと思っていた。ちょうど渡殿を過ぎたところで清涼殿の女房が猫を探していたので、肩の上で熟睡している猫を渡すと、帝はもう起床されているという。そうなれば挨拶しないわけにはいかない。宿直明けは必ず帝と朝食を共にするのが愛息である王侍従の仕事の一つだった。
「おはようございます、主上」
「うむ」
「今朝はお早いお目覚めですね」
案の定、長い白ひげをたくわえた五十過ぎの帝は六匹の猫にまみれていた。その一匹が黒曜なのだが、彼女は、帝にこびを売る様子はなく、ただ眠たそうに二階厨子の上のものを足で蹴落として自分の寝場所を確保していた。
「黒曜は昨夜、そちといたのか?」
「はい。後涼殿で宿直しておりましたところ、どこからともなく現れました」
「懐かれておるのぉ」
「たまたま散歩に来たのでしょう。後涼殿の者たちも猫好きが多いですから」
「うむうむ」
帝は髭を弄ぶと、黒猫を見て、そして王侍従を見た。以前から、黒曜をくれるとは言ってくれるものの、手放し難いのか、清涼殿に置いたままだったが、人に懐かない黒曜が唯一心を許しているのが、愛息とあれば、帝も猫の一匹ぐらい譲る気にもなってくれたのか――。
「黒曜を連れていくといい。だが、時折、宮中に連れてまいれ。他の猫も寂しがるからの」
「しばらくは後涼殿の曹司において置こうと思います。急に住まいを変えるのはよくないですから」
「そうするとよい。ふらりと清涼殿にも遊びに来よう」
王侍従はなんだか申し訳ない気がした。帝が離しがたく思っているのは分かるから心苦しくなる。しかし、どうしても王侍従は黒曜が欲しかったから、あえて固辞することはなく、ありがたく頂戴することにした。しばらくは後涼殿の義母の元に置いておけば、猫は気まぐれに帝の拝謁を賜ることだろう。
「それより、何かあったのか?」
「何かと申されますと?」
「誰よりも遅起きの史唯が、朝早くから内裏を歩いているとはおかしな話ではないか。しかも昨夜寝た様子もない」
「多少は寝ております。昨夜は後涼殿で酒を過ごしまして、気づいたら簀子で大の字になって寝ておりました」
「けしからぬのぉ」
帝は王侍従の話に笑ったが信じた様子はなく、ただ二階棚の上にいる猫に微笑んだ。
それでも、聡明な賢君として知られる今上は、息子が何かを隠していることなど十分承知で、あえて問わずにいてくれた。それは息子思いの父ゆえというより、話が後涼殿の尚侍であり、権力者藤原基経の妹である範子に関することがらであるのが分かったからだろう。
「宿直、ご苦労であったのぉ。また今夜も後涼殿か?」
「はい。そうなるかと存じます」
「うむ。では少し休むといい。侍従は他の者を呼ぶ」
「では御前を失礼いたします」
清涼殿から開放された王侍従は、後ろに退くと、黒猫が呼んでもいないのに、やってきて立ち上がろうとした彼の背に乗った。帝の前ではあまりに無礼であるので、肩から下ろそうとしたが、見れば帝の背にも三毛猫が一匹乗っている。
「似たもの同士でございますね」
長橋局(ながはしのつぼね)がそんなことを言うものだから、帝も王侍従もひとしきり笑った。おかげで、堂々と猫を背に乗せて歩くことができた。そして黒曜を帝から下賜してもらったことに心が高揚した。黒猫はこの日の本の国では珍しく、唐(から)からしか入らない種類であるのはもちろん、彼女は歩けば龍のように頼もしく、また美しかったから、王侍従にとって特別な存在となるのは間違いなかった。
「俺と来ることになって嬉しいか」
猫は問いにツンと澄まして答えることはなかった。代わりに賜っている曹司で働く女童が短い髪を揺らしながら走って来て、彼女の好物の乳粥が清涼殿から届けられたと知らせて来た。
「贅沢者め」
鼻を指先で軽く叩いてやると、猫は不機嫌に尻尾を振っていたが、肩から下りる様子はない。四本も足があるというのに、歩くということにまるで慣れていないようだった。
「ついに粘ってそのお猫さまを帝から賜ったのですか」
曹司に行けば、勝手に寝ていた豊宗が、気だるそうに首だけ起こして王侍従の猫を見て言う。
「帝に押し付けられたのだ」
「物欲しそうな顔をしていたのではなく?」
「馬鹿を言え。いらないとおっしゃるから仕方なく連れてきたのだ」
愛息である王侍従に帝は惜しみなく書物や絵巻物などを与えるが、王侍従の方からねだったことなど一度もない。ただ、この黒猫に関しては別で、よく分からない運命めいたものを彼女に感じて、それとなく帝に黒曜が欲しいと女房を通じて匂わせたのは事実だ。
「少しお休みになったらいかがですか。私は神祇官に寄ってきますから」
「構わない、お前も寝て行け」
王侍従は豊宗の横に寝転んだ。猫は冷たい漆の文台の上に身を横たえ、身繕いをする。王侍従はすぐに眠気に襲われた。昨夜は緊張ばかりの一夜で、還城楽などにも出会ってしまった。今はわずかにでもそれを忘れてしまいたい。眠りの底に彼は静かに沈んでいったが、遠くで豊宗の「化け猫。余分な尻尾は隠しておけよ」という意味の分からない忠告が聞こえて、眠気に逆らおうとしたけれど、彼の限界はとうに来ており、深い夢に落ちた。
王侍従が、目が覚めたのは、夕日が最後の光を落とす時分だった。
しかも胸を圧迫される苦しさで目覚め、しびれた手足は動くこともままならない。これはきっと還城楽の祟りではと思って、ぎゅっと目を瞑った。しかし、すぐに違和感を抱く。すうすうと規則正しい寝息の音が聞こえてくるのだ。物の怪の気配にしては安穏で、清らかでさえあった。
王侍従はそっと瞳を明けてみた。
――は?
彼が見たものは――自分の胸の上に眠る黒髪の少女だった。
夜這いを掛けられたことは何度かある。
それにしても胸の上に寝るとはどういうことだろう。まじまじと何度も見ても、胸の上に乗って涎を垂らして寝ているのは十七、八の少女だった。しかも、けったいな格好をしている。
唐風とそれを呼べばいいのだろうか。
空の二部式の衣、かつて奈良に都があった頃に来ていたものに似ている襦裙(じゅくん)に高価そうな金の釵(かんざし)で髪を飾っている。おまけに一度見たら忘れられないほどの美少女である。まつげが長く、白磁のように白い面(おもて)をし、紅潮した頬が売れた桃のように赤かった。狭めの額を前髪で隠しているのも愛らしく、小さめの鼻に、やや大きめな耳朶(じだ)は品がいい。
「お、おい」
王侍従は声を掛けてみた。
まったく起きる様子はない。
「おい」
今度は肩を揺すってみる。
が、鬱陶しそうにそれは払われるだけで、何の効果もなかった。
王侍従はもう一度勇気を振り絞って少女の肩を揺する。問答無用に振り落とすこともできたが、どうみても普通の人物ではないので、そうできなかったし、どこか見知っているような気もしたからだ。
女は三度目に体を揺すられてようやく身じろぎをして、顔を手で覆う。その姿は無防備で、思わず笑みがこぼれてしまうほど可愛かった。
「起きよ」
王侍従が彼女の頭(こうべ)を撫でてやれば、気持ちよさそうにした。そして王侍従の意表をついてなぜか「みゃ」と鳴いた。
は?
一瞬固まった王侍従。
そしてあたりを見ると、黒猫の姿がない。慎重な豊宗が部屋を出るとき、猫を逃がすとは思えないから、当然いるはずであるのに、姿も形もない。
「まさかな……」
呟いたけれど、なんとなく気になってそっと少女の豊かな黒髪を掬ってみれば、その手首に帝が赤い絹で作らせた銀の鈴付きの贅沢な首輪が付けられたままになっていた。
「黒曜!」
思わずがばりと起き上がると、少女は褥の上に転がり、不思議そうに王侍従を見上げる。
「お前は黒曜なのか? そうだろう? 物の怪なのか。どこからなんの目的で来た⁉」
矢継ぎ早に尋ねると、少女はきょとんとして、そして自分の姿に気づくと大きく目を丸めた。
「我は――」
そこまで言って言葉は出てこなかった。
王侍従は焦っていたことも忘れて彼女を待った。少女も美しい月形の眉を寄せて当惑していたが、やがて自分の矜持を思い出したのか、ぴんと胸を張り、形のいい顎を突き出して言う。
「我こそは唐の皇帝の娘、永寿公主じゃ!」
それはまったく突拍子もなかった。
「公主? 内親王と言いたいのか? なにを根拠に……そんな馬鹿げたことを」
「嘘ではないまことじゃ!」
少女は唐訛りの大和言葉でいう。加えて、尊大な老人のような物言いはどこか滑稽で、苦笑を誘う。
「何を笑っておる!」
「いや、なんというか、可愛いなと」
少女は不機嫌にそっぽを向いた。腕輪の鈴がチリリと鳴って、赤い紐が見え隠れする。
どう見ても少女は人になった黒曜である。
少しつり上がった瞳にしろ、光の加減で金色に見える瞳の色にしろ、王侍従が他では見たことがない黒曜らしい特徴をとらえていた。
「どうしてこの国に?」
少女は少し顔を曇らせる。
「乱があったのじゃ。卑しい男が国を乗っ取らんと謀反を興し、陛下は都の長安を捨て、蜀へ蒙塵された。我は船で皇帝陛下を追いかける途中、船が難波した。それでこんなところに連れて来られた……のじゃ!」
「でもどうして猫に? そなたは黒曜なのだろう?」
「我は猫などではない。母が勇猛なる突厥沙猫部族(とっけつさびょうぶぞく)の出なだけだ」
王侍従は突厥沙猫部族なる部族を知らなかったが、突厥というかぎり、唐の西方の部族なのは分かる。猫の妖怪の類なのだろうか。そうなると黒曜は妖怪の母と皇帝の血を引く、半妖ということか。
唐では日の本の国よりよっぽど妖怪が闊歩していると物語にあるだけでなく、商の妲己などは妖狐の類いだと言われている。皇室と姻戚関係を持つ妖怪の部族ということになる。この国にはない話だが、海を渡った唐などでは、そういった不思議なことがあるのかもしれない。王侍従は言葉を選びながら訊ねる。
「船が難破して怖かっただろう?」
「そんなことはない」
「流浪の旅の末に、このような異国に流れ着き、見知らぬ人に言葉、困らなかったか」
「我は既にこの国に一年もいる。馬鹿ではない。言葉ぐらいなんとかなる」
「太宰府弐や帝から聞きかじって言葉を学んだから、そんな時代がかった言葉遣いになったのだな」
自分の言葉が可笑しいとは思いもしない少女は、むっとした顔が向けられた。
その釣り上げた目にしろ、気の強そうなところにしろ、やはり猫の時の面影がある。だから憎々しい顔つきさえも愛らしく見えてしまうから不思議だ。
「でも困ったな。猫が人だったとは……」
「何が困ることがあるのじゃ」
「人に知られたら『調伏』しようなどという僧侶が出てくる。なんとか気づかれないように屋敷に連れて帰らなければならないな。猫には戻れるのか」
「あまり我の意思ではどうにもならぬ」
どうやら黒曜はまだ若いため、自分の姿を制御することが難しいらしい。「修行がたりぬのかもしれぬ」とか細い声で彼女はつけ加えた。
「いつ人になるのか分からないのか……」
それはかなり危険なことだ。人に見咎められたら厄介だ。王侍従はすぐにでも屋敷に帰ろうとしたけれど、既に日は落ちている。後涼殿に行かなければならない刻限はとっくに過ぎていた。
「王侍従君」
そこに現れたのは、宮廷の神事を司る卜部家の御曹司、卜部豊宗である。王侍従は顔を明るくし、「入れ」とすぐに言って、身を乗り出した。片や、唐人であり猫である美少女は、椅子に慣れているらしく、脇息に腰掛けて、王侍従の蝙蝠を拾い上げると蒸し暑い空気をぱたぱたと煽り始めた。どう考えてもおかしな図だ。ところが――。
「これは、これは。遂に人の姿になってしまいましたか」
驚いたことに豊宗は黒曜がただの猫ではなく、化け猫であることを知っていたのだ。
「どうして知っている?」
「見てすぐに分かりましたが、心配はしておりませんでした。王侍従君を占筮したところ卦で『帝乙 妹を帰がしむ。もってさいわいあり。元いに吉』と出たものですから」
「それではまるで俺がよき妻を迎え、結婚するかのようではないか」
「どうなのでしょうね」
曖昧に友人は微笑んだ。王侍従は占いの類いは信じないが、豊宗は亀卜をするだけではなく、父親が遣唐使帰りゆえに易経にも通じている。当代一の占い師と言ってよかった。普段、彼が王侍従のことを占ってくれることなどめったになく、それが占って大吉であったのなら上々だ。
「で、どうしたらいい? 黒曜を屋敷に連れて帰りたい」
「さあ」
「さあでは困る」
「曹司に置いておいたらいかがです?」
王侍従は少女を見た。どうみても自由人で、大人しく曹司の中に隠れていてくれるようには到底見えない。監視の厳しい清涼殿からも逃げ出したのだ。曹司に閂をしてもどこへでも行ってしまいそうだった。かといって、塗り籠めの唐櫃に入れておくのはあまりにも可哀想だ。猫好きの王侍従にはとてもできなかった。
「後涼殿に連れて行く。どうせ夜だ。明かりを持たずに五衣を着せてしまえば分かりやしない」
「……どこからその衣を調達するのですか」
「ちょっと待ってろ」
王侍従は、黒曜と豊宗を奥にある六曲の屏風の中へと押しやると、すぐに簀子に出て通りすがりの女房の手を引いて部屋の中に連れ込んだ。
「王侍従君……困ります、こんなことをされては……」
「藤左近。頼む。衣を脱いでくれ」
「王侍従君――じつは以前よりお慕いしておりました」
「それは奇遇だ。俺もだよ」
王侍従は女房が何か言う前にさっさと腰紐を解き、袴を素早く抜き取った。
「そんな、せっかちな……あれぇ……」
まんざらでもない女房はそう言ったが、王侍従は素早く脱がした装束を掴むと「行くぞ!」と言って奥にいた黒曜の肩に衣を羽織らせ、走り出す。「ちょ、ちょ、ちょっとお待ちを! 王侍従さま!」という女の悲痛な声が三人を追いかけて来たが、振り返る暇はいなかった。
「はぁ、なんとかなったぞ」
「扇を忘れましたな」
「それもその辺で調達を――」
女ものの扇を得るなど簡単だ。恋歌をさらりと書いて、交換すればいい話なのだから。しかしそんな時間はないから、王侍従は開いている部屋に黒曜を入れると、女の装束を着るの手伝った。
「袴はないが、まぁ、もう暗い。なんとかなるだろう」
「着付けるのが、ずいぶんと慣れた手つきじゃな」
「慣れているのでしょう」
黒猫公主と豊宗の二人が、白い目で見たが、王侍従は無視をする。腰紐をきっちりと緩まないように結んでやると、髪を上げていた釵を解いて彼女の手のひらの中に入れた。そうなると、どこからみても黒曜は大和美人に見えるから、髪を梳く櫛がないのが悔やまれた。
「今度、もっといい装束を作ってやろう。黒曜は紅の袿が似合いそうだなぁ」
あれやこれやと作ってやらなければならない衣装を考えていると、少女の方が鬱陶しそうに袖を振って言う。
「和国の衣は重い。唐では女子も袍を着て男装し、馬にも乗る」
「それはすごいな。女が馬にも乗るのか」
「ああ。当然ぞ。だから我はこんな衣は着たくない。女の自由を衣で縛っているようじゃ」
「黒曜、今は、少し我慢してくれ。屋敷に連れて行ったら馬にも乗せてやるから」
「ならば早う、行こうぞ」
黒曜は気持ちの切り替えが早い。そう言うと、自分の家のように内裏を歩き出した。その後ろを行く二人の男。
「後涼殿の尚侍さまにはなんと説明するのですか」
そっと豊宗が耳打ちする。
「唐帰りの祈祷師とでも言っておけばいい。お前の知り合いだ」
豊宗は迷惑そうな顔をしたけれど、他にいい案が浮かばなかったので、こっそりと呼んだ物の怪退治の達人だということにした。幸運なことに、後涼殿に行くと義母も奇妙な少女に興味を抱かなかった。奥に引っ込んで厨子の前で一生懸命に「悪霊退散、悪霊退散」と唱えていたからだ。勝ち気な範子も物の怪には弱いらしい。
「庭に行こうぞ!」
黒曜は物の怪退治に意気揚々としていた。勇猛な猫族の血が騒ぐのだろうか。王侍従は彼女の手に引かれて重い腰を上げ、昨晩と同じように簀子に酒を用意させると、還城楽が出るのを待つ。
「また出るでしょうか」
「人なら出ないだろうな」
「物の怪ならまた出ると?」
「俺の勘ではそうだ。物の怪ならば、目的は義母上を苦しめることだ。なのに義母上はまだピンピンしている。寝込むまでやってくると考えるが自然だろう?」
「そうかもしれません」
義母の話では還城楽は範子の寝所にまで現れて、几帳を覗き込んでいたという。その距離がどんどん近づけば近づくほど、範子の恐怖は募り、あの気丈な性格でも具合を悪くしてしまうのは目に見えている。今は仏に祈るだけの元気があるが、物の怪に憑かれると、たいてい寝付いてしまうのが常だ。
「酒が欲しいな」
「どうぞ」
豊宗が酌をしてくれたが、本当は黒曜に聞こえるように言ったつもりだった。しかし、唐の公主さまはもちろんそんなことはしない。その割に行儀は悪く、欄干に座って足をぷらぷらとさせている。後涼殿の女房たちは怖がってこちらに来ないから良いものの、暑いといって装束も脱ぎ捨て、袴と単のみの姿だ。あられもない姿であるにも関わらず、なぜか艶めかしくはないのが不思議なところで、彼女は色っぽさとは無縁の天真爛漫な童女のようなところがあった。
「お前も飲まないか、黒曜?」
「乳粥が食べたいのじゃ」
「分かった。用意させる」
王侍従が自ら立ち上がろうとしたのを、豊宗が代わって女房に言いつけに行った。黒曜は我が儘で、気分屋だが、寂しがり屋でもあった。豊宗の姿が消えると、欄干からこちらにやってきて、王侍従と背中合わせに座って足を抱えて座る。
「どうした?」
「別に」
「お腹が空いたのか? 干し肉あるぞ」
少女は肘で王侍従の背中を叩いた。お腹が空いているから甘えているわけではなさそうだ。
「どうした?」
「どうもしない」
ただ寄り添っていて欲しいだけのようだった。
それは今夜の月のせいに違いない。
白くさやかな月は、雲もなくその全容を表しており、きっと唐の都でも同じ月が昇って、彼女を思う人々もまた望んでいることだろう。そう思うと感傷がこみ上げて、和琴を引き寄せる。
「いつか必ず、お前を唐に帰してやろう」
「出来ぬ約束はせぬ方がいい」
「出来ぬ約束ではないさ。我が国は新羅の賊が対馬を狙ってほとほと困っている。差し迫って唐に使者を送る必要はないが、いずれ新羅にはなんらかの使者を送ることになるだろう。新羅は、今は戦乱を理由に取りやめているとはいえ、唐に朝貢している。新羅まで行ければ、きっと唐に帰る道筋はできるだろう」
「うむ」
少女は腕組みをした。
「だから約束しよう。きっといつか家族に会わせてやると」
少女が背の向こうで鼻水をすする。それがとても可愛らしくてならないので、抱き寄せてやろうとしたけれど、どうも近くに寄りすぎると逃げる質らしく、するりと王侍従の腕から逃げて、乳粥を持って来た豊宗の方に走って行ってしまう。そして皿を受け取ると、匙で器用に乳粥を食べ、ご機嫌ににっこりと微笑むのだった。
「聞かせてください、公主。あなたにはあの還城楽はどう見えましたか」
豊宗は帝にするかのように畏まると、立ったままの少女に尋ねた。
「あれは――」
言い淀んだ黒曜。彼女は還城楽が現れた渡殿の方を見やって、眉を寄せる。
「あれは死人の霊ではない」
「ではなんでしょうか」
「妖怪かもしれぬが、生気がない、魂魄に問題のある生きた人間かもしれんな」
「公主もそうみるのですね」
「そうじゃ」
豊宗は黒曜と同じ見解だったのだろう。さもあらんと納得顔で頷いた。「魂魄に問題のある生きた人間」とは一体どういうことなのだろう。王侍従は豊宗の方を向いた。
「おい、どういう意味だ。説明しろ」
「簡単です。あの還城楽は生霊なのでしょう」
「生霊がどうして還城楽の格好をしているというんだ」
「顔を見られたくないのです。顔が知れた人物で、私が見たところ、尚侍さまが言う通り、背格好からして男ではないかと思います」
「男の生霊か……」
生霊といえば、大抵女だと相場が決まっていると王侍従は思っていた。
女人の中には悪い男に騙されて、愛を奪われた恨みと嫉妬を抑え切れなくなって、「生霊」という、生きながら体と分離して霊魂体となって恨み相手を呪い殺そうとする者が多い――というのが物語では多いのだ。それなのに男?
豊宗が言う。
「男とて嫉妬いたします」
「まあ、そうだけれどな」
「男の嫉妬の方が女の嫉妬より根が深いものです。後涼殿の尚侍さまの場合、今上を即位するに当たっては根回しを手伝い、多くの皇子たちの恨みを買いました」
「ならばなぜ清涼殿に現れない。狙いは主上ではないのか。義母上など恨む相手からしたら雑魚ではないか」
「清涼殿は神祇官が常に浄めておりますし、主上自身が神仏に守られたお方。直接、狙うことができないので、同じく恨みを抱き、主上の近くに住む尚侍さまに取り憑くことでゆっくりと内裏を蝕もうとしているのではございませんか」
「なるほど……」
「後涼殿をさらに護符や塩、酒で浄めなければなりません。しかし、その前に還城楽を追い払い、その人物が誰か突き止めなければなりませんね。そうでなければ、この怨霊騒ぎは止むことはないでしょう。根から問題を立たないと続くでしょう」
「つまり、生霊の還城楽を捕まえて、その面を外し、正体を暴くということか」
「まあ、そういうことになりそうです」
こともなげにいう豊宗だが、この月影のように冷たく美しい男は、まったくもって体力勝負の仕事には向いていない。つまり、生霊を捕まえる役目は、もっぱら王侍従の役目になることが推測できた。正直言えば、王侍従とて生霊は気味悪く、触れるのも恐ろしい。
「武士(もののふ)を呼んでこようか」
「必要ありません。余計な噂を広めるだけです」
ぴしゃりと言って杯を取る豊宗。自信があるのだろう。だが、王侍従にはない。酒を不必要に呷るほか、気持ちを落ち着かせる術を王侍従は知らず、執拗に杯を呷った。黒曜だけが、腕を枕に足を組んで寝ている。
「そろそろでしょうか」
月が西に傾き、昨日のようにあたりに霧が立ち込めてきた。いや、これはもしかしたら、霧ではないのかもしれない。なにしろ気味悪く首に巻き付き、背中に冷たいものが走るのだから。それは霊気というものに近いような気がした。
「静かだな」
「はい……」
多くの人が住んでいるはずの内裏に物音一つしなかった。
女房のところに通う公達も、今はまだ帰る刻限ではなく、掃除をする女嬬も目を覚ますにはまだ早い。今は夜と朝の狭間の時であり、大地を眩く照らす北辰を今しばらく見つめていなければ、夜の混沌に飲まれてしまいそうな時間だった。
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