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3  風がしっとりと通り過ぎていった。  黒曜は美しい黒髪を風に揺らしながら、鼻をピクピクさせ、こちらを見た。 「来ます」  同時に、化け猫と違って嗅覚ではなく六感で異変を感じる亀卜師(うらないし)は、杯をゆっくりと置いて押し殺したような声で言った。少女は半身を浮かせ、全く怨霊などというものに縁のない王侍従だけが取り残されたように、杯を片手に動けなくなった。  そして聞こえて来たのは隙間に風が通るような横笛の音――。  寒々しい音で、悲しげな音色を鳴らす。  霧に染まった夜の闇が静かに蠢いて、紅の袖がこちらに近づいてくる。 「来たな」  そう言った王侍従の声は上ずり、太刀を握る手が僅かに震える。  還城楽は静かに舞い出し、怪しげに怒りを表した赤い面を閃かせた。 「くそ、顔が見えない」  面から見えるのはぎょろりとした眼(まなこ)だけ。だが男なのは間違いない。背丈が、王侍従よりも少し高いくらいあり、体格は細めだ。ただその舞う姿は女かと見紛うほど優雅で繊細だった。類まれな技に、王侍従はどこか懐かしさを感じた。見たことのある舞手なのかもしれないと思ったが、誰とまで言えない。  そして霧はどんどん濃くなった。  笛の音は空耳のように耳の中で鳴り響き、還城楽が引きずる衣擦れのみが、こちらに近づいてくる。そして王侍従ははたと気がついた。還城楽の手に、昨日はなかった陵王の舞で使う金色の桴(ばち)が握られていることを――。それも火箸のように先が尖り、月光を捕らえて青白く光る。王侍従は恐れ、一歩後ろに下がった。 「捕まえるのじゃ!」  それは突然の掛け声だった。  獲物を見つけた獣のような声がしたかと思うと、美しい少女、黒曜が飛び出して来た。彼女が踏んで杯は転がり、酒は飛び散ったが、それに驚くより先に、少女は欄干に足を掛け、ぱっと袖を翻して飛び降りた。それはあたかも獅子のごとくで、王侍従は一瞬見惚れたが、すぐに我に返ると己も欄干を飛び越えた。  一人、豊宗だけが、簀子の端に立ち、真っ白な蝙蝠(かわほり)を取り出すと、大きく仰ぎながら唐の言葉で祝詞を口にする。それは還城楽を封じるためのものだ。袖が風に舞い、闇に逃れようとした還城楽の逃げ場が失われた。 「史唯! そっちに回るのじゃ!」  勇猛な突厥沙猫部族(とっけつさびょうぞく)の血が騒いでいるのか、黒曜はなんの恐れもなく前へと突進していく。その勇ましさは、草原を駆けるという西方異族の武将のようで、海を越えたという神功皇后を思い起こさせる頼もしさだった。 「あ、ああ!」  すっかり主導権を奪われていることなど気づきもしないで、王侍従は少女の言う通り、後方に向かうと浄めた太刀を抜く。きらりと光る刃は、退路を断たれた還城楽の面を明るく照らし、ここまで来たら怖いなどと言ってもいられない。 「名を名乗れ。なぜ義母上を呪う!」 「…………」  還城楽の背から黒い霧が湧き上がり、金色の桴を両手に構える。桴の先が研いだように鋭く、王侍従は太刀を構え直した。 「名乗れ」  じりじりと前へ前へと還城楽を挟んで王侍従と豊宗が進むと、動けなくなった還城楽はついに桴を振るった。ぎりぎりで王侍従はそれを受け、十字に合わさった二つの金属は、僅かに震えてから、同時に飛び退(すさ)ることで、距離を作る。 「気をつけろ!」  それは自制を仲間に求める合図だったはずだ。  それなのに、黒髪をなびかせた少女は豊宗の太刀を奪うと、王侍従が見たことのない、異国の構えで還城楽に立ち向かっていくではないか。王侍従は彼女に怪我を負わすわけにはいかないから、心の中で舌打ちし、恐怖を打ち捨てて、還城楽に切っ先を向けた。  太刀が桴に打ち当たる音が夜の闇を裂いた。  足が蹴った塵が、あたりに舞い上がる。雲が薄絹のように月を抱いたかと思うと、闇が再び落ちてきて、命知らずの公主の太刀が再び光る。還城楽は剣舞を舞うように華麗にそれを跳ね除けるも、連続して小猿のごとく襲い掛かる少女に手こずった。もちろん、王侍従もそれに挑み、豊宗は小枝で結界を描く。どんどん追い詰められていく還城楽。 「や!」  黒曜が石の上から太刀を振るい上げた。 「黒曜!」  王侍従は斜めに還城楽を斬ったが、それは紅色の袖を掠っただけだった。しかし、少女の太刀は還城楽の面を捉え、その斜め半分を切り落とした。 「おのれ!」  男が初めて声を出した。殺気に満ちた片目が目玉をむくようにこちらをにらみ付けた。血走った目には恨みと憎しみが溢れていた。  そしてすぐに片側を手のひらで隠したが、男の顔は、老年で顔は土気色をしており、げっそりと痩せていた。それこそ、皮と骨だけという印象だ。到底「人」ではないのを王侍従は見逃さなかった。なにしろその顔に見覚えがあったからだ。 「観寂(かんじゃく)さま……」  その名を呼んだ途端、相手は瞠目し、王侍従を強い力で押したかと思うと、豊宗の張った護符が結界を描いた星の五点から一気に吹き飛んだ。 「凄まじい霊気だ!」  豊宗は身を庇うように袖で顔を覆う。しかし、風は止むことがなかった。それなのに一人勇猛なのが、黒曜である。  夜の闇に消えようとしていた還城楽の手を掴むとそれに噛み付いた。すると、一瞬にして人だった彼女が、黒く小さな猫に変わり、投げ飛ばされて地べたに叩きつけられた。 「黒曜!」  王侍従は思わず、黒曜に走り寄ったが、それがよくなかった。  知らぬうちに、豊宗が張った結界の外に出てしまったのだ。金色の光を放っていた五芒星は色を失い、沈みきった夜の地面となっていた。その隙をついた還城楽が、素早く桴で豊宗を攻撃し、身をかわした瞬間、闇の中にすっと消えた。まさに異空に吸い込まれるようで、音すらしなかった。 「くそっ。逃げられたか」  王侍従は地団駄を踏んだが、豊宗は落ちていた自分の太刀を拾うと、王侍従の横に立った。 「強い霊気を持つ悪霊でした。感触はまるで生きた人間のようなのに、振るう力は人のものではなかった。あんなものを捕獲するのは、到底無理な話です。逃げられてよかったのです。まともに張り合ったら、後涼殿を破壊していたやもしれません」 「だが、逃げられたらなんて義母上に言う?」 「そのまま言えばいいのです。『観寂さまを見た』と」  王侍従は戸惑った。  観寂さまこと、観寂入道は、先々帝の第二皇子であり、皇太子に立てられたが、後に皇太子を廃され出家した入道親王である。たしか、王侍従の父である今上より五歳ほど年上のはず。今上が即位するときに候補の一人に挙がり還俗が噂されたが自ら断ったと聞いていた。範子に恨みを抱く理由はあるとは考えられない人物だ。 「暗かったし、確かなことではなかった。観寂さまは高僧だ。そんな方が悪霊になるなど信じられないし、たとえそうだったとしても簡単に糾弾出来る相手ではない」  猫がにゃあと鳴いて、慌てて王侍従は自分の懐に黒猫を入れた。彼女は霊気を使ったのかひどく弱っていて、懐の中で小さく丸くなる。 「ご憂慮は当然です。観寂さまは淳和帝の第二皇子としてお生まれになった高貴なお方というだけでなく廃されたとはいえ東宮にまでなったお方です。その清廉潔白なご性格のために度々復位を要請されるも辞退したと聞きますから、悪霊とはほど遠いように思われます」 「そうだ」 「しかも御仏に深く帰依しておられ、その説法を聞こうという者は貴族から庶民まで多くいるとか」 「ただ、最近はご病気だという噂は聞いている。かなりお悪いらしい」  豊宗がちらりと猫を見た。 「あれが観寂さまであったかということを調べる方法はあります」 「なんだ? どうする?」 「公主さまが悪霊の手を噛みました。怪我をしているはずです」 「でもあれは生身の人間ではなかっただろう?」 「生身ではありませんが、全く死んでいる霊ではありません。怪我は存在しているはずです。公主さまもまたただの人間ではないのですから」 「うむ」 「それに少し不可解なことがあります」 「というと?」 「なんとなく昨日の還城楽と違うような気がしたのです」  王侍従は腕を組んだ。豊宗が言う。 「日が昇ったら、嵯峨に参りましょう。観寂さまは大真寺におられるはずですから」  僧侶、観寂は都を離れ、嵯峨に大覚寺を開基している。会えるとしたらそこしかない。都から嵯峨は遠いが、義母のためなら行かないという選択はない。 「黒曜はどうしよう? ずいぶん弱っているようだが……」  こういう切羽詰まった時に、まず猫のことを考えてしまうのが猫好きの性(さが)であるが、豊宗は呆れ顔で王侍従に答えた。 「そのまま懐に入れておけばよろしいのでは?」 「そうか?」 「はい。霊気を少しずつ自然から摂取して元気を取り戻すでしょう。嵯峨は草深い場所。大地の気を摂れて、都にいるより回復も早いかと存じます」  王侍従は懐ですやすやと眠る猫の狭い額を人差し指で撫でてやった。
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