12人が本棚に入れています
本棚に追加
4
4
王侍従は嵯峨へと向かう牛車の中で、大の字で寝ていた。
その胸の上で眠るのは、黒髪の美少女、永寿公主こと黒曜だ。京の都を出たあたりから、人の姿に戻ったのだが、そうしていると落ち着くからだろうか、王侍従が眠っているのをいいことにその上に重なるように寝ている。
そんな彼が、ようやく目覚めたのは昼前のことだった。
「重い」
のそりと起き上がって烏帽子を直すと、少女の頭をそっと膝に移した。
見れば、豊宗が足を崩さないまま、牛車に乗った時と同じ姿勢で座っていた。そういうところが堅物だ。見られていない時は少し気を抜いてもいいものなのに。
「もう少し寝ていらしては?」
「なんだか嫌味に聞こえるな、豊宗」
「別に嫌味ではありません。お二人して気持ち良さげに眠っていらっしゃったので」
神経の細かい豊宗はこれから生霊の本体に会いにいくことに緊張しているのか、昨夜から一睡もしていないようだ。しかも鄙は道が悪く、先程から車が上下しているから、車酔いもあるらしく、あまり牛車に乗り慣れないのもあって青い顔を蝙蝠の中に隠していた。
「そんなに気を張ることもないだろう? 見よ、黒曜を。どんと構えているぞ」
少女はむにゅむにゅと口を動かし、王侍従の袖を握りしめながら、美味いものの夢でも見ているのだろうか。にっこりと微笑んだ。
「公主さまのように高貴な生まれではないせいか、小さなことを心配ばかりしています」
「心配とは?」
「観寂さまが否定された場合です。生霊も自分のしていることを分かっている者と、無意識の者がおります。もし意識なく、尚侍さまを呪おうとしていたのなら、言いがかりをつけられたと思われて『無礼者』と王侍従さまにお怒りになることでしょう」
「別に腹を立てられたって構わないさ。俺は義母上の方がよっぽど恐ろしいんだから」
世捨て人の元太子より、政治を牛耳る一族の娘で、今上を帝の座に座らせることに奔走した人物であり、養母である人の方が王侍従が恐ろしいのは当然だった。ただ、相手は清廉潔白な僧侶として有名な人物。失礼があっては王侍従の評判にも響く。
「話してどうするのですか。『もう生霊になるな』と説得するおつもりで?」
「まあ、基本、そうなるだろう。話を聞けば応じてくださるさ」
「そうでしょうか」
一抹の不安を隠しきれずに豊宗は蝙蝠を畳み、膝の上に置いた。
「案じるな。なるようにしかならないよ」
王侍従が友人の肩に手を乗せた。
豊宗はうなずき、御簾を少し掲げた。そこは一時前と同じ鄙びた山中だったが、わずかに道がよくなって、道幅も少し広くなっていた。蝉の声がやかましいほど響き渡り、深緑に包まれた空気は爽やかだった。黒曜が瞳をわずかに開けた。
「もう着いたか?」
「もうすぐだよ」
王侍従は豊宗に対するのとは違う甘い声で答えた。
「もう少し寝ていたらどうだ?」
「そうじゃな、我はもう少し眠る。後で起こすのじゃぞ」
眠くてたまらないといった風に目をこする少女。艶めかしさはないというのに、純真な清らかさがあって、王侍従はその横顔に見惚れた。ところが、彼女が再び眠りにつく前に、牛車が音もなく停まって、わずかに車が前後した。
「着いたようです」
もともとは嵯峨帝の離宮として作られたのがこの大真寺で、それを寺として開創したのが観寂入道親王である。広大な敷地に雅な建物や池があり、仏門を志す貴人の住処らしい静けさもあった。ただ、以前来た時より近く感じて首を王侍従は傾げたが、立派な瓦葺きの門を見れば、寝ていたせいだとすぐに分かった。
「ようこそお越しくださいました」
立派な網代車を見て、慌ててやってきた僧は王侍従のことを知らなかったが、直衣姿であったので、観寂に会いに来た貴人であるのを気づいて大きく頭を垂れた。名を清寂(せいじゃく)と名乗り、観寂の弟子だという。丸顔の小心そうな腰の低い男である。年は三十そこそこくらいか。
「突然済まない。俺は侍従の源史唯だ。観寂さまがご病床にあると聞いて見舞いに来た。取り次いでくれないか」
「それは、それは遠路はるばる、ようこそお越しくださいました」
「これは友人の卜部豊宗と……女房だ」
王侍従の黒曜の説明は無理があったと言っていい。なにしろ、黒曜の姿は唐の衣のままだったのだから。しかし、僧侶は奇妙な少女よりも「卜部」という名の方に気が行った様子で、小声で王侍従に尋ねる。
「なにゆえ、卜部さまが?」
「俺の友人だ。神事を司る家の人間が寺に来るのはおかしいか?」
「そんなことはございません。御仏はどなたも歓迎いたしますでしょう……ただ王侍従さまがこちらにお越しになったというのは、その、つまり――帝のご命によるものでしょうか」
「帝? いや。俺の個人的な気持ちで見舞いにきただけだが……ご無礼だっただろうか」
「そのようなことは全くございません。大変失礼しました」
王侍従は練り薬の入った陶の小さな器を僧侶の手に置いた。
「これは京でよく効くという薬師が作った傷薬だ。観寂さまは、手を怪我されているのだろう? これをつけるといい」
「お気遣い感謝します。傷がひどいようでずいぶん今朝からお苦しみの様子でしたから、ありがたいことでございます」
そう言って、はたと、気づいた目を僧侶はした。どうして京の都から今到着した王侍従が観寂の今朝の怪我を知っているのかという顔で、王侍従を見たのだ。
――カマを掛けたのは成功したな。
豊宗が予測していたとおり、観寂は手を怪我している。そして僧侶のその警戒心から察するに、周囲も何かを感じ取っていて、恐れるものがあるように王侍従には思えてならなかった。
「よいところじゃな」
王侍従は気を張り詰めかけたが、少女の呆けた声が、美しい青い池に吸い込まれて、緊張が緩んだ。彼女は長い袖をひらひらして蝶のように翻すと静寂な寺院の空気を吸い込み、気を取り戻すかのようにゆっくりと息を吐いた。
「迷子になるなよ、黒曜」
「分かっておる」
裙(スカート)の裾を翻して黒曜は、庭を走っていった。そして池の中を覗いて魚をつかもうと袖を濡らし、更に池の水底を覗き込む。
「落ちるぞ」
王侍従は見かねて、黒曜の腕を掴んで立たせると、灰色に変わりつつある空の下、僧侶が待つ方へと戻る。清寂は奇行のある少女を卜部家の巫女と思ったらしかった。たしかに、襦裙の衣に花鈿を額に飾った姿は、都が藤原宮であった頃の衣とさして変わらないから、古の呪術を扱う巫女に見えてもおかしくない。
「どうぞ」
その部屋は長い回廊のはてだった。この暑い盛りに格子は閉じられ、風さえも入らない部屋に観寂はいるという。しかも、この高僧の観寂の部屋は北に面していて、南の棟ではない。
黒雲が高い屋根の向こうに迫るのが見える。急に夏冷えを感じるのは気のせいだろうか。豊宗が眉をよせた。
「感じるか」
「香の匂いが強く勘が鈍ります。何かを匂いで隠しているのは感じられます」
豊宗はそう言って、同意を求めるように黒曜を見た。
彼女はそれには答えず、さっさと妻戸の方へと歩いていく。まったくもって怖いもの知らずだ。王侍従も腹をくくると彼女を追いかけて開いたままの妻戸を潜った。
室内には、唐渡りの青銅の小さな香炉が四方に一つずつ置かれ、暑いというのに、御簾も下がったままだった。王侍従たちは臥せった観寂と御簾を挟んで対面することになり、清寂が観寂を手伝って身を起こした。
「見苦しいかと思いますが、臥せっておりまして、このような姿で申し訳ない」
観寂の声は、弱々しく、戦った還城楽とは似ても似つかなかった。手の怪我に関しても、奥の部屋の方が暗く、中の様子は伺い知れない。
「実はご病気であられると聞いてはいましたが、お願いがあって参った次第でございます」
「ほう? なんでしょう? このような私に出来ることでしょうか」
王侍従はゆっくりと息を吐いた。言い方を間違えれば、大変なことになるだろう。無礼を咎められるだけでなく、帝にも迷惑を掛けかねない。
「実は最近、内裏で生霊が出るようになったのです」
「生霊?」
「はい。還城楽の姿をした生霊が後涼殿あたりを夜な夜な彷徨うのでございます」
清寂が身動ぎをしたが、観寂は声をやや低くして答えた。
「それを私にどうしろと?」
「調伏の祈祷をお願いしたのでございます」
「祈祷? このような身で祈祷とは――」
しとしとと外で雨の音がし始めたかと思うと、ざっと大粒の雨が降り出して簀子を濡らした。夏の通り雨だろう。
僧侶たちが慌てて格子を閉め出し、雨音はこもったようにしか聞こえなくなったが、じっとりとした暑さが狩衣の襟を締め付ける。
「内裏で起こったことです。秘密裏に祈祷しなければなりません。これは国の一大事なのです。入道さまにしかできないことでございます」
観寂は即答しなかった。それどころか、義母、藤原範子が懇意にしている僧の名を上げてから言う。
「尚侍は信心深く、多くを各地の寺に寄進されていると聞いております。特に何人か特に信頼している僧がいるとも伺っています。そちらを当たられた方がよろしいのではありませんか?」
「これは尚侍さまがお命じになったことではなく、私個人が、調べてこちらしか頼れるところはないと思い、こうして参った次第です。どうか嵯峨まで来た私をこのまま帰すような冷たいことはおっしゃらないでください」
「何をお疑いですか?」
入道は病気とは思えない強い語気で言った。
「疑うなど――」
「拙僧は、生まれてからこの方、常に疑われて生きて参りました。十にも満たぬ間に立太子し、不運にも廃太されることとなりました。それ以来、常に腰を低くし、頭を垂れて生きてきたというのに、死に際にまで、なにゆえに疑われなければならないのですか」
涙さえ流し始めた高僧を前に王侍従は何も言えなくなった。それなのに、ずっと身を低くして黙っていた豊宗が口を開く。
「疑いを晴らすことは簡単です。昨夜、現れた生霊にこの娘が噛み付きました。歯型が手にないか確認させてください」
すると激高した観寂は近くにあった扇を御簾に向かって投げた。
「無礼者! 地下者は身をわきまえぬか!」
しかしその拍子に王侍従は聞き手に白い布が巻かれているのが御簾越しに見た。王侍従は豊宗の非礼を詫び、頭を床につけたが、相手は「出て行け」と言うばかりで取り付く島もない。
「ご無礼をいたしました。どうぞお休みください」
そう言って立ち上がった王侍従に観寂はさらに枕を投げつけた。カタンと御簾にぶつかって床にころんだ枕を横目に「さあ、さあ」と部屋から追い立てる清寂に背を押されて部屋を出る。
「ずいぶん、観寂さまは変わられましたね」
観寂は、確か六十ぐらいだろうか。君子として有名で漢籍にも通じた文人僧侶という印象だった。特に親しいというわけでもない王侍従は内裏でしか見かけたことがないからかもしれないが、物を人に投げつけるような人物には思えなかった。
「雨も激しくなっております。よろしければ、もう少しあちらの部屋で雨宿りされていかれてはいかがですか」
空は薄暗くさえあった。
朝とは天気は一変し、激しく横殴りの雨になっている。しかし、西の空は明るく、しばらくすれば雨は上がりそうに見える。居心地は悪いが、しばらくとどまらせてもらうのがいい。
「ではそうさせてもらおう」
王侍従は素直に頷いた。人の良さそうな清寂は、ほっとした顔をして茶を出すように小坊主に言いつける。
「最近なのです。あの方があんな風になったのは」
「手に怪我をしていましたね。あれはやはり今朝から?」
「はい。起きたらあのようになっていたとか」
王侍従は顎に触れた。
「何か他に変わったことは?」
「特に何も――いえ、あります。還城楽です。先程の話にも出た」
「それは?」
「今朝、還城楽の衣装が池に浮いているのを見つけたのです。裲襠装束(りょうとうしょうぞく)です。あれはたしか、雅楽の衣装でしょう? 紅地に唐草の地紋のある顕紋紗の衣です」
清寂は、布に包まれた衣を持って現れた。見せられたのは還城楽の血染めの衣装だ。王侍従たちは息を飲む。
「どうか、観寂さまをお助けすると思って御成敗ください。ご本人は何も分かっていないご様子です。このまま放置して尚侍さまだけでなく帝にも危害が及んだら大変なことになるでしょう」
「うむ」
「御慈悲だと思ってどうかお願いします」
成敗は出来るか分からないが、救うことはできるならしてさし上げたい。清寂の憂慮は尤もなことなので、王侍従は無下にできずに頷いてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!