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5  結局、雨は弱まるどころか、嵐となって王侍従たちを足止めし、その夜は寺に泊まることになってしまった。雨音が瓦に落ちる音や、外から聞こえる木々のざわめく音に一人で寝ることがいやで、色恋なしに黒曜と部屋を同じにした。 「この寺は不気味すぎる……そう思わないか、黒曜?」 「もっと向こうの茵にゆけ、史唯。我の寝るところが少ない」 「そんなに押すと畳から落ちる。衾(ふとん)を独り占めするな、黒曜」 「うるさいな。我が眠れぬではないか」  猫の布団取りはずうずうしい。仕方なく、丸まって王侍従は寝るといつの間にか彼女は懐に入ってくる。王侍従は黒曜の髪が乱れないように乱れ髪箱に入れてやり、抱きしめてやれば、清涼殿の帝が好む香りがしてどうも色めいた気分にはならない。 「誤解されたのではないか」  几帳に囲まれた寝所の中で王侍従が囁くと寝ていたと思っていた黒曜は不本意だとばかりに目を開けて顔をしかめる。 「誤解されてもいいさ。ここは寺だから不埒な真似はしない。かといって黒曜を一人にはさせられないだろう?」  黒曜は面倒くさそうに枕を抱えて丸まって横になる。王侍従は「それより」と膝を進めて少女に近づくと、小声で尋ねた。 「何か異変を感じたか」 「さあ。でもあの部屋の匂いはおかしかった。何かを隠しているように思う」 「霊感はないが、俺でもあの煙は強すぎると思った。観寂さまに関しては?」 「御簾越しではよく分からぬが、常軌を逸しておるのは分かる。この寺はなにやらおかしいぞ。我は不安でならぬ。我は寝るのが得意じゃが、なぜか胸が騒いで眠れぬ」 「うむ」  不埒なことはしないと言いつつ、王侍従は不安がる黒曜を後ろから抱きしめた。やわらかな温もりがし、心がすっと落ち着くのがわかった。 「皆が寝静まったら、様子を見に行ってみようぞ」 「見に行く? まさか観寂さまの寝所ではないだろうな?」 「そのまさかじゃ!」 「寝所を覗くなど、無礼ではないか。相手は高僧だぞ?」 「そんなことを気にしている場合か?」  確かにそうだ。  もしかしたら今夜も母のところに還城楽は出てきて、呪い殺そうとするかもしれない。それは断じて阻止しなければならない。しかも、同じ考えだったらしい、豊宗が、隣室から現れたので、王侍従は太刀を片手に立ち上がるしかなかった。 「お前も元東宮さまのご寝所を覗こうというのだな」 「この寺は何かおかしいのです」 「分かった。分かった。責はすべて俺が負うよ……まったく……主上になんと言われるか……今から頭が痛い……」  帝と中宮に叱られ、義母、尚侍に庇われる図は目に浮かぶようだ。それなのに、全く責任とは関係ない黒曜が獅子の如くにょきっと起きると、らんらんと金色の瞳を光らせて先陣を切って歩き出す。  人の姿なのに、なぜか尻尾が見えるような気がするのは気のせいか。黒曜の歩き方、そのものが猫だ。王侍従は一つため息をついて豊宗に背中を押されるように部屋を出た。 「間違いだったらどういうことになるか分かっているだろうな」 「私の勘は外れたことがありません」 「勘だけをたよりに俺は太刀を携えて法親王の寝所に忍び込むのか……」 「まぁ、そんなに悲観されますな」  豊宗に励まされた王侍従は暗く不気味な寺の渡殿を進む。昼間は清く見えた蓮の池も夜になると、すべてを飲み込む漆黒の海のように見え、激しい雨に打ち付けられている庭が、常世の国の入り口に思えた。  しかも雨音の間にかすかな琴の音がすれば、足がすくむ。 「観寂さまでしょうか――」  観寂は楽に通じているともっぱらの評判である。悲しげなその音色は、確かに他の者には出せない上品なものだった。 「うら哀しい音ですね」  豊宗は言うが、ぼさぼさ頭の少女は長い髪を揺らして振り向いた。 「自分に酔った音色じゃ」  手厳しいが、その指摘は正しい。ねっとりと、そして余韻が妙に長い演奏は、確かに酔っているように聞こえる。王侍従は再び歩き出した。しかし、その歩みはすぐに止まる。清寂が何かを持って回廊を行くのが見えたのだ。足早に進む僧侶は、柱の影にいた三人に気づくことなく観寂の部屋の方へと消えて行った。 「なんだろう?」 「薬を持って行ったのでは?」  それはもっともな話だ。豊宗は黒曜を追い越して先頭を取った。三人は忍び足で朧月の下を行き、一つだけまだ明かりのついた部屋へと近づいた。 「いますか」 「ああ、二人いる」  少し開いたままの妻戸から覗き込むと、御簾の向こうに二人の男が御簾の内にうっすらと灯りの下で見えた。一人は観寂らしく、琴の前におり、もう一人はその身の回りをしている清寂である。二人の声は小さく聞こえてこない。 「いかがしますか」 「しばらく見張ろう」  王侍従は建物の裏手に移動してそこから部屋の出入りを観察することにしたが、半刻経っても、何も起こらなかった。琴の音さえ、聞こえなくなって、清寂が部屋を出て行き、あたりは静まり返った。 「眠い」  黒曜が一番に弱音を吐く。 「寝ていろ。何かあったら起こすから」 「さっさと部屋に入ってみよう」 「それは様子を見て――」  及び腰の王侍従の前で、少女が黒猫になった。捕まえようとした王侍従の手をするりとかわすと、音も立てずに回廊を行き、部屋の中に入っていってしまった。 「黒曜」  王侍従は声を潜めて呼んだが彼女は帰ってこない。  舌打ちをした王侍従は太刀を握り直すと、豊宗を伴って観寂の部屋の中に忍び行った。 「相変わらずの匂いです」  鼎からは未だに煙が上っているが、少しばかり今は匂いが違う。護摩木のようなものが混ざっているのではないだろうか。足元に黒猫が倒れており、五感が異変を告げた。慌てて反射的に袖で口元を押さえるも、気が遠くなりかけて、片膝をついた。 「逃げましょう!」  豊宗が王侍従の腕を掴み、王侍従は太刀を持たないもう片方の手で黒猫を懐に入れた。しかし、ことはすでに遅し。向かい風が吹いたかと思うと、御簾を通り越して僧衣の観寂の顔が鼻と鼻がくっつきそうなぐらい近くにあった。 「わっ!」  尻もちをついた王侍従。  むき出しの目で観寂は睨み、生臭い息を吐く。 「恨めしい。私を廃位した連中も、こうして僧にもなって身を低くして生きているのに、未だに疑う連中も、本当なら私が座るべきであった玉座に座る帝も、それを助けた尚侍も。そして何より、次の帝に目されているお前が一番恨めしい」  真っ黒な顔の観寂の白磁のように生気が抜けた手が、王侍従の首を掴んだ。  観寂は、先々帝の皇子として生まれ東宮となり、後に廃された。先帝が崩御し今上が即位する前、即位を勧められたが、本人は固辞したという。それなのになぜ、こんな風に恨みを懐き続けるのだろうか。  ――帝位を諦めたのは本人の意思だと思っていた。都のほとんどの者もそれを信じている。でも、違った?  ぼんやりとしていく意識の中で、黒い霧が自分のまわりを包みだし、ケラケラと嘲るような笑い声がするのを王侍従は聞いた。そして漠然な不安の沼に引きずり込まれ、逃れられない底なしの暗闇の中でもがく。王侍従は息ができなくなるのを感じた。呼吸を整えようとすればするほど、息が吸えなくなった。苦しい――。 「しっかりしてください!」  誰かが頬を叩く痛みで、王侍従はかすかに現実に戻された。しかし、完全に彼を現の世界へと引き戻したのは、猫の容赦のない爪で、四本の爪が左の頬にしっかりと入って、血の線を描いた時だった。 「はっ――俺は――一体……」  見渡せば、なぜか自分は池にいる。半身を濡らした豊宗が辛うじて王侍従の腕を取って沈没を防ぎ、黒猫が彼の肩に乗っているではないか。 「操られていました」  常に真顔の男がいつもより真剣な眼差しで言った。 「操られる?」 「大丈夫ですか。立てますか」 「あ、ああ」  王侍従は自分が抜き身の剣を持っていることに気づいた。 「王侍従君は太刀で私を殺そうとしたのです」 「まさか! 冗談だろう⁉」 「冗談ではありません……ご無礼かと存じましたが、仕方なく池に放り込みました」  否定しようとしたが、豊宗の狩衣の袖は斬られていた。猫も恨みがましそうに睨んでいるし、もしかしたら本当のことかもしれない。が、頭はまだ働いておらず、体もどっぷりと半分池の水に浸かっていた。 「あの香です。あれが原因です」  豊宗が引きずるように池から庭へと運んでくれ、ようやく地に足をつけられた王侍従は、豊宗の説明を良く聞き取ろうとしたが、理解するまでにはいたらなかった。が、質問をする前に、鋭い何かが頬をかすめた。かたんと石に当たって立てた音は大きく、傷よりも音の方に驚いて振り返る。 「金剛杵!」  金剛力士などが持つ、金属で出来た法具である。煩悩を打ち砕く象徴と言われている。 「おどきください!」  豊宗が突っ立っている王侍従を突き飛ばすように、それを拾うと黒曜に投げた。彼女は華麗に回転し、人の姿に変わって金剛杵を受け取ると、勇ましく構える。 「呆けているな。参るぞ!」  黒曜はそう言うと長い髪を揺らして走り出した。豊宗も祝詞を唱えながらそれに続く。王侍従は、それでようやく欄干に片足を乗せて立っている観寂の姿を瞳にとらえた。手にしているのは、太刀である。銀色に光るそれを黒曜に任せるわけにはいかない。王侍従は太刀を掴むと一目散に観寂に向かっていった。  カンと高い金属のぶつかり合う音がして、空気が一瞬張り詰めたが、すぐに辺りは黒い霧に包まれた。雨も激しく肩を濡らし、豊宗と黒曜の位置を推し量るのも気配と勘が頼りだ。 「気をつけろ。来るぞ」  またケラケラと子供のような笑い声が闇の中からした。僧侶は病床の床にあったとは思えないほどの素早さで右に左へと動き回る。王侍従は心を落ち着かせた。無為にならなければ、気配さえ捕らえられない。相手は生身の人間ではないのだ。  ゆっくりと構えた太刀。  長く息を吐く。  気配が「来た!」と思った時には、すでに体が動いていた。同時に相手の太刀を弾き、間一髪、観寂の攻撃から逃れる。  間合いを取った二人は睨み合った。  観寂の瞳は瞳孔が開き、闇を吸い込んだかのように白目がなかった。それなのに口の端だけは上がっており、笑っているようにさえ見える。不気味の一言で、どう見ても正常な人間の様子ではない。 「私が祝詞を唱えている間に、斬るのです!」  そうしなければ、こちらが殺られる。  卜部家の秘蔵っ子は祝詞で観寂の動きを押さえつつ、陰陽道に神道を加えた独自の呪文を唱えると五芒星を空に切った。すると、それは結界となり、観寂の動きを完全に塞いだ。王侍従は峰に返した太刀をたすき掛けに振るう。 「ひぃ!」  悲鳴が響いた。  それは縊られる鶏のような声だったが、降参を表すものではなく、狂気に満ち、ぎょろぎょろとした黒い瞳を揺らして王侍従に近づくのを諦めなかった。 「ひ、ひ、ひぃ! きぃ、きぃ、きぃ!」  かつて当第一の美貌の宮と言われた観寂にその面影はない。  ただ太刀を無造作に振るい、「恨めしい。恨めしい」と王侍従の耳元で呟くのだった。太刀は軽く腕を掠ったが、痛みを感じている様子もなかった。 「護符を張ります」 「こいつを成仏してくれ!」  不死身に起き上がる観寂に豊宗が護符を張った。豊宗は僧侶ではないので、成仏させることはできないが、護符の力のおかげで手の打ちようもなかった観寂が瞬く間に大人しくなり、へたりと地面に座り込んだ。 「大丈夫ですか」  結界の外から声を掛けたが、返事はない。生きているかも分からなかった。 「死んではおりません。今は力を封印し、押さえつけただけです」  豊宗はこともなげに言い、王侍従がしまい忘れている太刀を代わりに鞘に戻した。 「僧侶たちには悪霊を退散させる祈祷をさせましょう。私も手をつくして、観寂さまを正常に戻します」 「そうか。頼む」  清寂がこちらに深々と頭を垂れ弟子の僧侶たちを連れてきた。総勢十五人ばかりか。皆、若い僧で剃った頭も青々としている。  王侍従はまだ息が切れた胸を押さえて庭石に座った。そして弟子の僧侶たちに連れて行かれる観寂を見つめていた。墨染めの観寂は口をポカンと開けたまま、僧侶たちに両脇を取られて引きずられる。呆けた老人のようで、先程まで刃物を振り回していたようにはとても見えなかった。 「待つのじゃ!」  しかしそこに八重歯を輝かした黒曜が現れた。  いつもに増してその顔(かんばせ)は白く美しく王侍従には映った。 「手を見るのじゃ」  手?  なんのことだろうかと王侍従は思ったが、後涼殿に現れた還城楽に黒曜が噛み付いたことを思い出す。もし観寂の手に歯型があったとすれば、後涼殿に現れる還城楽は観寂に間違いがないのだ。 「手を見ろ」  王侍従は清寂に命じたが、彼らは低く頭を垂れて言う。 「観寂さまをこれ以上追い詰めないでやってくださいませ。後涼殿の件はどうぞよしなに」  清寂はもう一度頭を下げた。それがなんとも芝居掛かって見えるのは気のせいだろうか。鼻持ちならなく感じた王侍従は、観寂の方へと歩きだした。何か分からない緊張が走り、玉砂利を踏んだ僧侶たちの足音が、ぎしぎしと鳴る。 「手を――」  と言い掛けて、清寂にさえ切られた。 「無礼ですぞ。こちらは前の東宮さまでいらっしゃるのです」  王侍従は唇を噛んだ。先程まで、協力的だった清寂が明らかに反旗を翻したからだ。しかし、身分制度などに無関係な存在がここには一人。そう――黒曜である。彼女は止めようとした僧侶を突き飛ばすと、観寂の手を取った。 「ない!」  観寂は、白い布を巻いているが、なんの怪我もしていなかった。 「この男ではない!」  はっとした三人は背中合わせに円を作った。すると、ケラケラという笑い声がする。あるいはヒヒヒヒと忍び笑いも含まれ、それが次第に近くに聞こえてくると、闇が少し薄らいだ。  すると空に月が見えた。  先程まであんなに雨が降っていたのに。 蛙と虫の声が聞こえて来て、雑草が足元を覆っていることに気づく。 「ここは――」  見回すとどうだろう。  そこは立派な大真寺ではなく、沼の横にある荒れ寺の庭だった。 「一体、どうして――」 「化かされたのです、私達は!」  戸惑う王侍従の横で豊宗が怒りに満ちた声で言った。 「これはきっと狐狸の類でしょう。獣臭さを消すためにあんなに香を焚いていたのでございますよ!」 「では、観寂さまは?」 「妖術と何か良からぬ薬を使って操っていたのでございましょう。一体誰の指図やら」  王侍従は再び太刀を抜く。相手は低姿勢だった身を急に翻して距離を置いた。  王侍従は叫んだ。 「狐狸め! 朝廷を騒がせるとは、命知らずな!」 「生かして帰してやろうと思ったのに、我らに刃を向けるとは、お前こそ命知らずだ」  丸顔の人の良さそうな小男だった清寂の顔が、蝋のように柔らかく溶けたかと思うと、吊り目の面長、顎が尖った狐顔になった。蒼白の面(おもて)に唇ばかりが赤く、ニタニタと笑い、なぜか口の中は真っ黒だった。 「お、お前……」  後ろに一歩、王侍従は下がるも黒曜の背とぶつかって再び前へと押しやられる。 「三人とも一緒に殺してやろう。心配するな、お前を殺したのは観寂で、観寂を殺したのはお前たちだ。俺が『ちゃんと見ていた』と告げてやる」  王侍従は鞘を払う。 「何者だ。誰に頼まれた」 「死にゆく者に語ることなど不要だ」  ヒヒヒとまた気味悪く男は笑ったかと思うと、十五人の僧らと一斉に僧衣を脱いだ。衣は還城楽のもので、全ての顔に面が着けられている。手には金色の桴(ばち)。それが三本前触れなく飛んできて、一本を王侍従はかわし、一本を太刀で払い、最後の一本を避けきれないと思った時、黒曜が金剛杵でそれを防いだ。 「とろとろしていると狐狸に殺(や)られるぞ!」  美しい少女はあまり褒められない言葉遣いで王侍従を警告した。 「駄目ではないか、黒曜。『のんびりしていると狐狸に殺められますわ』と言わねば」 「そんな余裕などないのじゃ!」  同時に還城楽たちが土を蹴った。相手は狐狸である。太刀を容赦なく振るい斬りつけると、胴を蹴って距離を作り、その隙にもう一人を容赦なく斬る。見れば、黒曜も負けずに金剛杵を使って戦っていた。唐の猫族と、日の本の国の化け狐とどちらの力が上かと尋ねたら、王侍従にも答えられないが、どちらが勇猛かと尋ねられたら、迷わず唐の猫族であると言うだろう。  なにしろ黒曜は、近づく男という男に噛み付き、ひっかき、急所を蹴る。手段を選ばず戦う西方の異族の果敢な武功の話はよく聞くけれど、絵空事ではないようだ。彼女はその血を十分に受け継いでいる。  もう一方、体力にはあまり自信のない豊宗はもっぱら術に頼っていた。祝詞を唱え、右手の人差し指と中指から白い気を放って目を潰し、その後に顎を回し蹴りして倒す。あたかも一撃で倒したかのように。  王侍従は二人が善戦していることを知ると、自分の仕事に集中した。  つまり、清寂を捕まえることだ。  あの狐狸になぜ、観寂を使って後涼殿に嫌がらせし、王侍従を殺そうとしているのか、聞き出さなければならない。皆同じ還城楽の姿をしているが、どうにかして頭を捕まえなければならない。 「黒曜! 清寂を見つけられるか?!」  王侍従は一人を背負い投げして蹴散らしながら聞く。 「あれじゃ!」  少女は鼻をヒク付かせると、風上にいる還城楽を指さした。確かに袖に血の痕がある。清寂に間違いないだろう。 「悪い」  王侍従は助走をつけて走り出すと、ちょうどかがんでいた豊宗の背を蹴って宙を飛んだ。そして着地と同時に向かってきた一人を斬って、逃げようとした血染めの還城楽の衣を掴む。 「逃しはしない!」 「うっぐ」 「誰の命だ。お前の単独でしたとは思えない」 「関係ないことだ」  もみ合った結果、面が剥がれて人の良さそうな丸顔とは無縁な狐顔が現れた。だが声は清寂のものに間違いない。逃すまいと袖を取ったせいで破れ、清寂の腕が顕わになった。その手首にあったのは――人の歯型の痕だった。 「お前だな。観寂さまを装って後涼殿に現れていたのは!」 「それならどうだというのだ」 「殺す!」  王侍従は太刀を下から斜めに斬り上げた。確実に下腹を斬り、体が揺れたが、根性で観寂は立っていた。王侍従は刃を首筋に向ける。 「話をしたくなったか」 「ふん」 「では一つだけ聞こう。誰がお前の背後にいる」 「とても高貴な人間だ。お前など手も足も出まい」 「そんな人間はたくさんいすぎて見当もつかないな」 「その太刀を下ろしたら言おう」  王侍従は駆け寄った豊宗を見た。彼はうなずき、狐狸の言葉を待つ。王侍従は素早く計算する。もし証拠を揃えてその貴人の悪事を暴いたとして罰せられるかということだ。そもそも義母の範子は大事(おおごと)にしたがっておらず、帝も事件を知れば困惑することになる。王侍従は決断しなければならなかった。 「分かった。背後の人間を言えば逃してやろう」  清寂はケラケラと馬鹿にしたように笑う。 「二条あたりの御方だ」  王侍従は瞠目した。  そして太刀を持つ手を緩めた。  その瞬間、狐狸たちは一斉に獣の姿に戻り草むらに消えていく。残されたのは、還城楽の衣と、呆けたままの観寂。あたりに静寂が戻り、廃寺の沼の蛙が騒がしく鳴き始めた。 「ところで、ここはどこだ?」 「さあ。大真寺ではないのは確かですね」  王侍従と豊宗は途方に暮れて、見え隠れしている月を見上げた。しかも、力を使い尽くした黒曜が猫になっている。 「栄養補給させてくれ」  王侍従は猫の柔らかな腹に顔を埋め帰路に備えた。  数日後、後涼殿―― 「まぁ、それでは狐狸が観寂さまのふりをしてここに来ていたのですか」 「そういうことになります」 「あなたもずいぶん危ないことをしましたね」 「義母上のためなら、これくらいなんでもありません」  王侍従が報告に行くと、尚侍、藤原範子は息子の言葉に感動したように胸を押さえたが、それ以上はあえて尋ねることはなかった。範子には誰が黒幕か見当が付いているからだ。あえてその名を聞いてしまえば、何かしらの報復をしなければ気が収まらないのが勝ち気な範子である。それでは帝に迷惑をかける政治の争いとなる。尋ねないことで自重したのだろう。王侍従はそのまま下がり、車で待っていた豊宗と合流した。 「二条といえば、やはり二条太后でしょうか」 「それしかないだろう。義母上とは犬猿の仲だ」  二条太后は今上の兄である先帝の后で、先帝崩御後、自分の息子を即位させようと試みたが、範子に邪魔され、兄から弟へと皇位が移り今上が即位したという経緯がある。恨みを持っていて当然の相手だった。観寂などまったく政治的に関係ない人物を持って来て、自分の存在を分からないようにしたのだろうが、上手くはいかなかった。 「観寂さまが尚侍さまを呪詛したと噂を立てて、尚侍さまの評判を落とそうとしたのでしょう。火のないところに煙は立たぬと。そしてあわよくば尚侍さまを狐狸によって呪おうとしていたのです」  待ちくたびれた黒曜は人の姿のままなのに、猫のように丸まって寝ている。すうすうという寝息が愛らしく、白い顔を縁取る垂らし髪が豊かだ。王侍従の顔にはまだ猫に引っ掻かれた傷が四本あるけれど、そんなものはとうに忘れてしまっている。 「さて、家に帰ったら乳粥を作ってやろうか」  王侍従は優しく少女の髪を撫で、その頬と頬をこすり合わせた。
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