第二章 鬼の巫女 1

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第二章 鬼の巫女 1

第二章 鬼の巫女 1  わずかに暑さが薄れた長月の終わり。  宮中では月見の宴が催されていた。  この日ばかりは、降嫁した内親王や、先帝たちの后、女御らの姉妹なども密かに殿上し、誰もが楽の音色や、月を詠った詩歌に心を傾けていた。男たちも御簾内の絹の襲に色めき、その衣擦れの音に耳をそばたてて、どれが誰それであるかなど言い合って競って風流な歌を贈る。 「色好みは止めたようだのぉ」  宴の最中、王侍従は帝の側近くにいた。  他の殿上人が浮き足立って中座しては、恋文を贈り合っているというのに、息子は赤い首輪をした黒猫を膝に帝の側を一時も離れないので、茶化したように帝は言った。王侍従は改まると、平伏し、さも改心したように言う。 「浮かれたって、務めをおろそかにはできません。私の務めは帝にお仕えすることでございます」 「さようか」  帝は息子を自慢するかのような視線を、侍る公卿たちに向けた。 「若いながらに立派な心がけです」  慌てて、大納言たちが見え透いた世辞を言い合う。  むろん王侍従はそんな老人たちと一緒にいても全く面白くない。が――黒猫が一匹一緒に宴を見たいというから、仕方なく屋敷から内裏に連れて来ていたのだ。この猫、自由人で宮中を自分の庭のごとく歩き回るし、化け猫であるので、時折、前触れもなく人間の姿に戻ってしまう。見張っていないとならなかった。 「黒曜はすっかりそなたに懐いたのぉ」  その言葉に猫はそんなことはないとばかりに、首の後ろを掻いて「はい。そうなのです」と言いかけた王侍従知らん顔をする。人の姿の時もそうだが、こちらから近づくとするりと逃げてしまうし、そっけない。そのくせに、腹が空いていたり、自分が眠かったりすると気まぐれにやってきては甘えるから、恋のいろはを知った年増の女よりよっぽどたちが悪かった。 「二条から黒猫を欲しいと言ってきたが、やはりそなたにやって正解だったの」 「二条から?」 「ああ。熱心に黒い猫が欲しいと言ってきた」  帝はそう言うと、篝火の上がる渡殿の方を見た。ちょうど二条太后が渡っていくところで、気味が悪いほど明るい紫の衣をどっぷりと太った体に纏っている。顔は扇で隠しているので見えないが、美しいという評判は聞かないので、押して計るべし。  観寂を操った狐狸の件でもその背後にいたのが、この女なのは記憶に新しい。王侍従は心底、黒曜を自分の手元に置けたことに安堵した。さもなければ、この黒猫の正体を知ったら、あの二条太后がどんな風に使うかも分からなかった。そもそも猫好きという噂は一切聞こえてこなかった。ただの、帝への嫌がらせに欲しがったにすぎないに違いない。 「史唯」 「はい、主上(おかみ)」  手招きされて、膝行すると帝は小声で言った。 「二条太后は第六天を祀っているともっぱらの噂での、気をつけよ」   第六天といえば、第六天の魔王。仏の行者に害をなす魔である。狐狸などを近づけているのも頷ける。 「お言葉、肝に銘ずる※」  王侍従は顔を上げると、再び渡殿の方を見た。  そこにはもう二条太后の行列はなく、紅顔の少年が空を仰いでいた。まだ十四歳の貞親親王、またの名を桂宮である。二条太后の息子だが、聡明で優しい気質の少年で、誰からも愛されていた。それが宴を楽しむでもなく、ぽつんと暗闇に立ち、物憂げな表情で雲に隠れている月を探している。篝火の爆ぜた赤い火の粉が散り、一瞬の明るさを取り戻したが、少年の頬を照らすほどの光はもたらさなかった。 「そろそろ参ろうかの」  高齢の帝は、眠そうに目をこすると席を立った。少し酒を過ごしたのか、足がふらつき、王侍従がそれを支えるも、帝は大事そうに自分の三毛猫を抱える。王侍従も黒曜を抱き上げて、肩に乗せると帝の腕を取って歩いた。   「主上は、憂慮されていることがあるのでございましょう。ここのところ、猫のことばかりで、政の話はされぬとか」  翌朝、曹司から後涼殿に行くと、萩色の衣をしっとりと纏った義母が、眉を寄せながら几帳の向こうから言った。 「憂慮とおっしゃいますと?」 「よく当たるという巫女の噂があるのですよ」  部屋には誰もいないというのに、義母の声が小さくなる。 「口寄せの巫女らしいのですが、最近では天気から、無くし物の場所、秘密の恋人の存在まで言い当てるらしいのです」 「それは結構なことではありませんか」 「結構なものですかっ」  義母は扇を握りしめ、床を叩いた。 「最近ではその娘を人々は崇め、現人神(あらひとがみ)さまなどと言い出す者もいるとか」  現人神は御一人たる帝のことだ。ただ人が名乗っていいものではない。 「ならば検非違使(けいさつ)を遣わして捕まえればよろしいことでは?」 「それが、占いのせいか知りませんが、捕まえようとすると、ぱっと住処を変えて煙のように消えてしまうらしいのですわ」  悔しそうに唇を噛む尚侍、藤原範子。すでに手を回しているらしかった。 「その巫女が、東宮には桂宮が相応しいと言ったとか、言わないとかで、下々の者たちはそれを信じて、桂宮の屋敷の前を通る時は、あやかりたいと手を合わせていくのですって。迷信深い、貴族の中にはすでに貢ぎ物を渡す列を門の前に作っていると聞きますわ」 「よくご存知ですね」  王侍従は純粋に感心する。宮中の奥深くで暮らしながら、内裏の外に住む王侍従よりもずっと市井の噂にも敏感なのはさすが政治を一手に握る関白の娘。 「都では知らぬ者がいない話です。最近あなたは、屋敷にこもりっきりで、宮中にいても、女房らと無駄話もしない様子ですからね、浮き世離れしてもしかたないことですよ、まったく」  王侍従は肩をすくめた。  確かに、ここのところは、黒曜にばかりかまっていた。屋敷に帰ると気が抜けるのか、黒猫は美しい少女の姿になって自由奔放に振る舞う。そして馬に乗れるのだと言って馬場で駆けて見せるから、王侍従は、書でしか知らない草原を行く悍馬を感じ、詩情を掻き立てられて、勇猛な武士(もののふ)の詩や賦を真似るのに凝っていた。  それに猫の姿の彼女は、気のないような顔をしているが、他の女にかまっていると尻尾を畳に打ち付けるように振り、不機嫌にどこかに行ってしまう。彼女と一緒に寝てもらえない夜の寂しさほど耐え難いものはなく、両足の間に文鎮のような重石がなければ、ごろごろと左右に寝返るばかりの夜を一人過ごすことになる。  だからここのところ、どうでもいい女房に、ちょっかいを出して暇を潰すようなことはしなくなった。彼女たちは、都や宮中の噂事をもたらしてくれるよい情報源であると同時に、悪い噂の種にもなった。噂なら頼んでいなくても、生母である中宮も、義母である範子も十分にかき集めて来るから、弘徽殿か後涼殿に挨拶しに行けばいいだけだ。 「義母上。今は身を引き締めて、つまらぬ付き合いをしないようにしています。その方が帝もご安心するかと存じます」 「それは本当によいことだと思っています。東宮に相応しいのは、桂宮などではありませんもの。そうでしょう?」  範子は暗に王侍従こそが皇籍に復帰し、東宮になるのが相応しいのだと言ったが、彼は意味が分からぬふりをして顔色を変えずに、扇を広げる。 「巫女と二条太后に繋がりがあると義母上は思っていらっしゃるのですね?」 「そういうことです。調べてくれますか」 「お任せください。豊宗に助力を頼みましょう」  王侍従はすぐに豊宗を呼んだ。
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