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第一章 1
七時二十三分のキセキ
1
からりと貼れた如月の朝――。
ローファーが大きな音を立てて駅を駆け抜けていた。改札を通り過ぎ、階段を下ってホームへと急ぐその音は周囲の注目を集めていたけれど、靴の主は人混みをぬって③と書かれた列へと急ぐ。
「ああ! 間に合わない!」
しかし、一度ホームに立つと、彼女は息を整え、胸を手で押さえる。大きな音とともに電車がホームに入ってくると、小さな紙の包みをぎゅっと抱きしめた。
「電車に乗ってなかったらどうしよう」
今日は二月十四日、バレンタインデー。手に持つのはチョコレート。待っているのは、この半年というものずっと片思いしている名門私立高校の男子高生だ。さらさらな髪に眼鏡をし、整った顔をしている知的なイケメンである。雛子が乗る電車とすれちがう下りに乗っていて、窓越しにずっと見つめていた。
それが三日前、窓に張り付いている雛子に「彼」は気づいて、いつも持っている参考書から目を離したのだ。そしてうっすらと微笑み、そして再び本に目を落とした。
「ぜったい、チョコを渡そう」
そう決意したの昨日。デパ地下に高級なチョコレートを買いに行った。手作りを渡すだけの勇気はなく、お小遣いぎりぎりの一番高いのを選んだのは、「彼」の育ちの良さそうな容姿と皺一つないきちっとした制服のせいだった。
そして迎えた今日――。
雛子の動悸が激しく鳴り、列の最後尾に並ぶと余計に不安になった。七時二十三分。それが彼の電車が発車する時刻だ。
もし降り損ねれば気まずい空気がただよってしまうだろう。なんとしても渡して下車し、次の上りに乗って学校に行かなければならない。
雛子はなんども長いストレートの髪を撫でて落ち着こうとした。電車がホームに滑り込んで彼女のセーラー服が翻る。ドキドキと胸が鼓動した。
ゆっくりとドアが開く。
胸の高鳴りは最高値になったけれど、一歩、勇気をもって雛子は電車に踏み込む。そして見回し、「彼」の連れの男子高生が目を見開いたのを無視して、反対側のドアに寄りかかる目当ての人の前に立った。
「好きです!」
突きつけられたチョコレートの包みに、「彼」は戸惑い、雛子を見た。驚きと不安がその端正な顔に浮かんでいたが、恐る恐る手を差し出し、紙包みを握る。
「間もなくドアが閉まります」
アナウンスにはっと雛子は我に変える。雛子は唖然と声を失っている「彼」にぺこりと頭を下げると、身を翻し、さっとドアへと向かった。このままドアが閉まったら、次の駅まで気まずくなってしまう。しかし、とっさに彼は雛子の手首を掴んだ。
「北門碧樹(きたかどあおき)」
名乗られて、一瞬、雛子はなんのことだか分からなかったが、ドアが閉まる笛の音に自分も名乗らなければならないことに気がついた。
「永見雛子です」
雛子がそれだけ言うと、彼は手を放した。解き放たれた雛子は爪先で床を蹴って閉まりかけたドアに滑り出る。ぎりぎりでドアは閉まり、電車は動き出した。窓から信じられない者を見たという顔をしている碧樹を雛子は見送る。手は敬礼し、プリーツの入った紺のスカートの裾が巻き上がるのも気にせず笑顔になった。
「見てたよ」
そこににやにやと現れたのは、友人の絵里香だ。
「ついにやったんだね」
「うん。ついにやっちゃった」
「いいことだよ。モヤモヤしていないところが、雛子のいいところ。でもあの人、今頃電車内で注目を集めているだろうね」
雛子は赤面する。
「そうかな?」
「そうだよ」
「迷惑だったかな?」
「可愛い女の子にチョコもらって迷惑じゃない人なんていないよ」
「可愛い? わたしが?」
「雛子は髪はさらさらだし、目は大きい。笑うとキラキラしている。自信出しなって。きっと上手く行くよ」
モデル体型の絵里香は身長が百五十四センチしかない雛子の頭をポンポンする。
「喜んでもらえたかな」
「電話番号は渡した?」
「ううん……家族に知られたくないし」
「弟君、過保護だもんね」
年子の弟、聖は雛子の恋愛に非常に敏感だ。中学生の時、雛子に告白した同級生を殴る蹴るの暴行を加え大きな問題になったこともある。だから、今日もこっそり告白したのだ。
「北門碧樹くんって言うんだ。頭良さそうな名前だよね」
「お坊ちゃまって感じ」
絵里香は微笑み、自分も彼氏にチョコを用意したことを告げる。昨夜、十一時までかかって手作りしたらしい。いつも彼氏の愚痴ばかりなのに、本当は大好きなのだ。情が深く、尽くすタイプの絵里香が雛子は好きだった。
――好きってちゃんと言えた。
そう思うと雛子は一人笑みをもらす。足がちゃんと躊躇せずにまっすぐに碧樹のところへと走ってくれたことに感謝し、浮かれて軽いこの足を労ってやりたくなった。
「どこに行っていたんだよ」
上りのホームのベンチに弟の聖が座っていた。ブレザーのネクタイを反抗的に緩めて脚を伸ばしている。色素の薄い瞳と髪は女子たちの人気の的だ。雛子は心の内を見透かされないように慎重に言葉を選んだ。
「トイレに行って来ただけ」
雛子は嘘が苦手だ。すぐに顔に出てしまう。今もきっと不自然な顔つきだったのだろう。聖は、訝るように聖は雛子を見たが、横に絵里香がいたので、今度は心配げにこちらを見た。
「具合が悪いのか。悪いなら家に帰って方が――」
「ううん。大丈夫。今日は古文のテストがあるからどうしても行かないといけないから」
「…………」
雛子は微笑み、聖の腕を引っ張って立たせる。
「電車来たよ。行こ」
「お前を待っていて一本遅れた」
「ジュースおごってあげる」
「大きいボトルの奴だぞ。小さいのじゃなくて」
「いいよ」
「気持ち悪いな。雛子が優しいなんて。今日はどうしたんだ?」
雛子は微笑んだ。呆れたような視線をこちらに向けるのは、絵里子だ。いつも、聖のことをシスコンを「キモい」とか言ってからかう。しかし、雛子も聖はそんなことを気にしない。彼は雛子の鞄を掴むとそれを持ち、電車に乗った。
「ありがと、聖」」
そしていつもと同じはずの雛子の朝はドキドキと始まった。
*
「夢じゃないですよね」
チョコレートを片手に固まっている碧樹に付き人の中島良平が訊ねた。碧樹は、そっと袋の中から小さなカードを開く。手が震えてしまうのを止めることもできない。
「好きです 永見雛子」
碧樹は息をするのも辛かった。座り込みそうなのを堪えているのは、車内の人々の好奇心が碧樹に向いているからだ。
「雛子――」
彼女は碧樹のことを忘れているはずだ。
それなのに、再び雛子は碧樹に恋をしていると言う――。縁とは絶ちがたい不思議なものだ。碧樹はブレザーの内ポケットにカードをしまった。そしてふらふらと学校の最寄りの駅で降りる。手が汗ばみ、顔は引きつっていた。
「碧樹くん。おはよー。バレンタインのチョコだよ」
改札を出れば、待ち構えていた女子たちからチョコの嵐が舞い込むも、彼はそれを気にする余裕もなかった。慣れたように良平が、紙袋を広げて、「ここに入れてください」と指示を出し「えー」というブーイングをする。しかし、不満げな少女たちも碧樹のいつにない深刻な顔にどうしたのだろうとひそひそと声を潜めた。その中の一人、ファンクラブの会長が代表して良平に声をかける
「碧樹くんなにかあった? 様子が変だったけど?」
「具合が悪いみたいで……」
「それならしょうがないね」
そんな調子だから、もちろん授業を碧樹はサボり、青い空が広がる屋上に座り込んだ。そして指を折って数える。十三、十四、十五、十六、十七。計五年という年月が雛子を失ってから経過していた。
「雛子が俺のことを好きだって」
ジュースを持って現れた良平の顔を仰いで碧樹が言った。逆光で良く見えない良平の顔が大きく笑みを作ったのが分かった。低身長で童顔、善良な碧樹のよき理解者でもある彼との付き合いは長い。見えなくてもちゃんとその表情は分かる。
「たしかに、そうおっしゃっていました。僕もたしかに聞きました」
「五年だよ。あいつらが雛子を攫ってから――」
「長い年月でした……」
「まだ信じられない。雛子が俺を好きだって……」
ポケットからカードを取り出す。少し丸みのある字で一言、「好きです 永見雛子」と書いてある文字を何度もなぞる。
「大祇司(たいぎのつかさ)さま、いかがされますか。雛子さまを白視たちから取り戻しますか」
「いや、まだだ。縁はまだ片方にしか結ばれていない。完全に結ぶまでは行動に移すのは危険だ」
永見雛子、いや彼女の本当の名前は北門雛子という、北門大社の跡取り娘だった。
それが五年前に攫われた。彼女はすべての記憶を失って一般人に紛れて暮らしている。しかし――彼女はただの人ではない。
「北門大社も一門の跡継ぎ娘が帰ってくれば、きっと以前のような輝きを取り戻します」
「ああ……」
「ご自分が誰かを告げたらいかがですか」
永見雛子は先の大祇司、つまり計二十八社ある北門大社系の神職トップの一人娘だ。碧樹とは十の時に結納をかわした間がらで、十八で本当の華燭を行う取り決めとなっていた。
「告げても雛子は迷惑するかもしれない」
「迷惑? どうしてですか」
「今、雛子は幸せにやっている。このままでいいんじゃないかと俺はずっと考えていたんだ」
「そんな……」
「北門大社はただの神社ではなく、異能者の集まりだ。そんな中に雛子を迎えて幸せになれるのか」
良平は首を振る。
「北門大社こそ、雛子さまの本当の家です。皆、雛子さまの帰りを待っています」
良平はきっぱりと言った。それに碧樹は何も答えなかったが、少し安心し、ジュースの蓋を開けてぐっと飲んだ。炭酸が聞いたレモンのジュースで、今の気持ちにぴったりだった。
――雛子……。
北門神社は、白視(はくし)と呼ばれる未来を占い術や、治癒の力を持つ異能者と、黒視(こくし)と呼ばれる呪詛や攻撃能力が強い異能者がいる。いわば、日本版の白魔術師と黒魔術師だ。ただ、どちらが正しくどちらが間違っているというものではない。
――あの日、俺が大社にいれば……雛子を奪われることはなかった……。
十三年前のある日、二つのグループは分裂した。白視の大部分が北門大社を去り、雛子もそのときに連れ去られてしまったのだった。
『碧樹くん!』
彼女が最後にそう叫んだと聞いた時は胸がはち切れそうだった。
――俺のせいだ。俺が黒視だから……。
「僕はまだ五年前は大社で暮らしていなかったので、よく知らないのですが、一体、何があったのですか」
良平が遠慮がちに尋ねたのは、大社内ではそれがタブーな話だからだろう。碧樹は普段、この件を思い出したくもないが、今日は心の内を話したかった。
「白視と黒視が分裂した理由か? それは――おそらく先代亡き後、一部の人間が後継に俺が選ばれたことに不満を持っていたからだ。俺が名門の出でなかったということや、黒視が北門大社のトップである大祇司に何代も黒視が選ばれていることを納得できないと白視たちが思っていたからだ」
良平は頷いた。
碧樹はチョコレートの入った袋に目を落とす。
「元気にしているのが見れるだけでよかったんだ」
碧樹は、毎朝、彼女が同じ電車に乗っているのを知っていた。すれちがう電車の窓からでいい。ちらりと雛子の姿が見たかった。
「記憶って不思議ですね。人から奪うことはできても、根っこまで取り除くことはできない」
良平の言葉に碧樹は頷く。
「もっとも聖の能力は白視としては強いけど、北門の娘を操るには少々力不足ということだろうな」
碧樹はどうでもいいという顔をする。それよりチョコレートの方が気になる。良平の前で開ける気にはなれない。彼は青い空を見上げた。静かに羊雲が南へと流れていく。ゆっくりとした時間。こんな風にときを過ごすのは久しぶりのことだ。
『雛子のことが好きです』
碧樹もまた雛子が言った言葉と同じことを言ったことがある。それは雛子との仮祝言が決まった、十のこと。ずっと片思いしていた人と結婚できたのは、碧樹が修行の末、黒視としての力を覚醒させたからだ。
『わたしも碧樹のこと大好きだよ!』
ただの遊び相手だった碧樹に雛子はそう言ってくれた。義父となった先代の大祇司の家族となったことは、親のない碧樹にとって幸せなことだった。一緒に食事をし「碧樹、もっと食べろ、食べなくては大きくなれないぞ」などと声をかけてもらうと心が温かくなったものだ。
しかし、その死後、聖が反逆し、北門大社は分裂してしまったのだ――。今、こうして雛子に「好き」と言ってもらい、だんだんと碧樹の迷いは消えて行く。彼女は今、幸せかもしれないが、記憶は確実に蘇りつつある――碧樹は彼女をやはり助けるべきなのかもしれない。
「雛子を連れ戻すとして、どうやって雛子に近づくか――」
「学校には聖たちの護衛がついていますし、登下校も聖がいます。今日気づかれなかったのは奇跡としかいいようがありません」
それには碧樹も同意だ。雛子が細心の注意を払ったとしか思えない。
「雛子の住む町内もほとんどあいつの息がかかった者たちだ」
「どうにか、雛子さまに一人で家を出てもらうしかありませんね」
「聖の結界から気づかれずに抜け出してもらうにはどうしたら……」
碧樹は腕を組んで空を見上げた。
良平が言いづらそうに口を開いた。
「兄上さまたちにご相談されてはいかがですか」
「兄貴たちに相談したら、この六ヶ月もの間、俺が雛子を盗み見ていたことがバレるだろ」
「ご長男の郁人さまは白視です。予知能力に優れ、気づいていないとは思えません」
「だとしても、崇道にはバレていない」
碧樹には義理の兄が二人いる。
長男の郁人は北門大社が二つに割れたときも、白視でありながら、残ってくれた人物だ。
崇道は次男で黒視。黒視のわりにぼんやりしているから機敏なことに疎い。
碧樹が三男で、実のところ聖は四男である。全員血の繋がりはない。高位の能力者の中から北門の姓をもらい養子としてもらうシステムなのだ。ちなみに叔父は三十五人もいる。
「俺一人でなんとかする」
「なんとかって……」
「俺は大祇司だぞ。北門大社で一番の能力者だ。不可能ではないさ。兄貴たちには黙っていろ」
「しかし――」
煮え切らない態度の良平の肩を碧樹は叩く。
「結納を交わした婚約者だ。取り戻してなにが悪い?」
碧樹は決意すると、すっと息を吸った。晩冬の冷たい空気が胃を満たす。手にしている告白のカードの文字に触れると、文字が光り浮かび上がった。横に座った良平が驚いた顔をした。
「これは、神秘的ですね。大祇司さまの力ですか」
「な、わけないだろ。俺がやると黒い煙みたいなヤツが出て来るだけだ。これは雛子の白視の力だ。とても微量だけど、静電気みたいに自分の想いが霊力となって浮かびあがっているんだ。これを書いた時の気持ちが燦めいているんだよ」
「無意識ってことですか」
「おそらく」
「北門家の娘には黒視と白視の両方の力があると聞いたことがあります」
「ああ、小さい時はそうだった。十キロくらいあるミミズの化け物を拾ってきて、黒視の子供たちと化け物レースをしていたよ……」
「僕も黒視ですが、気持ち悪いです」
「胃が痛い。悪気が貯まっているな」
碧樹は昨日、某政治家の呪詛を一件頼まれて、仕事をしたことを思い出す。人を殺すと悪気が貯まり、そこでじわりじわりと繁殖する。ずいぶん、今日も貯まっているだろう。それをいつもは兄の郁人に祓ってもらうのだが――。
「うん?」
「どうしました」
「なんか体の調子が……」
いつもは体の中に気が蠢く嫌な感じがするのに、今日という日はなぜかなにもない。
「浄化されている」
「腹の悪気がですか」
「ああ」
碧樹は腹をさすり、良平を見た。
「雛子だ。雛子が祓って行ったんだ……」
良平の目が大きく見開かれた。
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