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2  雛子は聖とともに帰宅した。  玄関の戸を開けると父、永見輝久の革靴が既にある。 「ただいま」 「お帰り」  輝久は夕食の準備をテーブルに箸を並べており、母は味噌汁を作っている。 「いい匂い。夕飯なに?」  聖がジャケットをソファーに投げながら言う。 「雛子の好きなハンバーグよ」 「わーい」 「いいな。いつも雛子の好きなヤツじゃん」  母の恵子はそれにわずかに微笑んだが、すぐに味噌汁に目を向ける。どこか憂うつそうな母は、父のことが心底嫌いだと顔にかいてあった。 「早く、着替えて来い。すぐに夕飯だぞ」  時間は六時少し前。  雛子は二階の自屋のドアを閉めた。ネクタイを外し、シングルベッドに腰を落とす。ここに引っ越してきてから五年、建て売りの家はまだ新築と言っていい。ただ、どこかこの家族に歪なものを感じ始めていた。  商社マンで年収一千万以上あるという父は、なぜか帰宅が五時三十二分と決まっている。残業をしたこともなければ、休日出勤もない。盆暮れの休みどころか、ゴールデンウィークも十日以上の連休がある。日常日は子供たちと遊園地に行ったり、ショッピングに行ったりするマイホームパパだ。中学の部活がソフト部だった雛子のために毎晩、練習を手伝ってくれたのも記憶に新しい。  母の恵子といえば、専業主婦でいつも鬱々としている。父のことが嫌いなのに、離婚したいとはちらりとも言わない。どことなく、この家の女主人というよりは、家政婦に徹しているようにさえ見受けられる。家族の一員たらんとする努力はない。  年子の聖といえば――成績優秀、容姿端麗。でもどこか冷ややかで厳しい瞳で両親を見ている。両親もまた彼の顔色を窺い、彼の一言で考えを変えることがままあった。  そしてなにより、おかしいのは、雛子の飼っている三毛猫だ。いつから飼っているのかも覚えていないが、雄の三毛猫は珍しく、家族に大事にされている。名前はミケランジェロ。通称ミケ。ただ――ある日、たしか十六になったその日から、雛子の目にミケランジェロは猫ではなく、巨大な三食のなまこのような生き物に見えるようになった。 「ミケ、ただいま」  初めは驚いたけれど、家族も「三毛猫に見えるよ」「なに言っているの、猫よ」「どうしたの、姉貴」などと言うので、ミケがなまこのお化けに見えることをそれ以上、追求するのをやめた。 「ぐおお、ぐああ」  にゃと可愛く鳴く代わりに、ミケランジェロは中年親父のいびきのような音を立てる。それでも雛子はそっと背を撫で抱きしめた。ミケランジェロがなんであれ、稲子にとってとても大切な存在で、毎晩一緒に寝ている。  雛は制服をスエットに着替えた。 「ごはんだぞ」  父の声が階下からした。 「はーい」  ずっと気づかないふりをしてきたけれど、なぜか今日は気になった。  常に頑張って家族をまとめようとしている父にしろ、父に飽き飽きしている母にしろ、影の支配者である聖にしろ、なにかが本当ではない。 「早くしろよ」  聖がドアをノックした。 「行くよ」  この家での雛子の役割は、無邪気な人を演じることだ。 「頂きます」  テーブルについて一番の笑顔を家族に向ける。父は笑顔を返し、母はほっとし、聖は穏やかになる。楽しい話題を提供するのも雛子の役目で、茶化すように聖を見た。 「聖ったらね、チョコ二十個は今日もらっていたよ」 「二十個? そりゃ、すごい。父さんは十四個だ」  輝久の言葉に雛子が笑う。 「お父さんのはお返し狙いでしょ。お母さんがいつもセンスがいいものを用意するから」 「バレたか。で、聖はチョコレートをどうしたんだ」  皆の目が聖に集まる。彼はハンバーグをつつくとどうでもいいように言った。 「そんなもの駅のゴミ箱に捨てたよ」 「捨てた?」  雛子はびっくりする。 「当たり前だろ。誰が触ったか分からない食品を食べたいと思わないし、持って帰るには重い」  雛子は口を尖らせる。 「酷い。そういうの良くないよ」  言ってすぐ、自分のチョコレートを碧樹が捨てていたらと想像して悲しくなった。バシバシと聖の肩を叩く。彼はわざとらしく痛がった末に、手を出してきた。 「まだ姉貴からもらっていない」 「チョコ捨てるような人にあげるチョコなんかない」 「そういうなって。楽しみにしていたんだ」  碧樹のチョコを買いに行くとき、カモフラージュで聖のを買いに行ったことにした。知られているから、渡さないわけにはいかない。しぶしぶ出して渡せば、聖は嬉しそうな顔をする。 「来年は料理を勉強して、手作りにしてくれよ」 「人が触ったものを食べるの嫌いなくせに」 「姉貴のは気にならない」  聖は潔癖症なのだ。母すら手袋をして調理している。がさつな雛子がそんな面倒なことをするはずもなく、曖昧に微笑んで母が入れてくれた食後の紅茶を楽しむ。そして父が目配せするように聖を見たのに気づいた。彼らは時々こんなアイコンタクトを取る。 「じゃ、わたしは宿題がたくさんあるから上に行くよ」 「分からないことがあったら父さんに言うんだぞ」 「うん。ありがとう」  スリッパをパタパタとさせて雛子は二階に上がった。ミケランジェロは相変わらず、ベッドの上で寝ていた。 「ミケ……わたしね、気づいちゃったんだ。この家、変だって」  ミケランジェロはぬくりと首を上げて雛子を見た。 「子供の頃は分からなかった。けど、今はおかしいのが分かる。まるでままごとの家族みたいなの……」  ミケランジェロはぐうはは、ぐほははと猫でいうところのゴロゴロをしながら雛子にすりすりし始めた。 「ミケのことだって猫に見えなくなったんだよ。どうして」  ぎゅっと抱きしめる。  コンコンとノックの音がした。 「姉貴?」 「なに?」 「数学の教科書持ってたら貸してくれる?」 「うん。どうぞ」  聖は薄茶の瞳で窺うように雛子を見る。 「どうしたの?」 「いや、朝から様子がいつもと違うから」 「ちょっと悩んでいることがあって」  聖は雛子の座るベッドに腰を下ろす。詳細を聞かなければ一歩も動かないといった風だ。雛子は仕方なしに嘘を吐く。 「進路のことだよ。お父さんは近くの大学だったら行っていいっていうんだけど……聖はどうするの?」 「まだ考えてない」 「そ」  進路のことなど本当は悩んでいない。雛子の偏差値は普通だから行けるところは限られている。家から通え、偏差値的に入れるのは、三つもない。 「じゃ、俺、風呂先に入るから」 「うん」  ドアが閉まると、雛子は布団に横たわった。今日、始めて言葉を交わした碧樹のことを思い出して赤面する。我ながら、どうしてあんな大胆な告白ができたのか、分からない。ただ、どうしても彼に自分の想いを伝えなければならないという想いにかられてしまったのだ。 「碧樹くん……」  明日は土曜日。彼に会うことはできない。  ――月曜日、碧樹くんはあの電車に乗っているかな。  乗っていなかったら避けられたと感じてショックだ。かと言って、彼がそこにいても電車が上りと下りで違うだけでなく、ホームで会えたにしろ、なにを話したらいいのか分からない。 「碧樹くん……会いたいよぉ」  そうしているとうとうととしてきた。ミケランジェロを抱きしめたまま、雛子はいつの間にか夢の中に落ちて行く――。 「雛子、雛子」  誰かが彼女を呼ぶ声がした。  雛子は聖が起こしに来たと思って目を開ける。すると、たしかに電気をつけたままだったはずなのに、部屋は真っ暗だった。雛子はミケランジェロとともに、辺りを見た。 「ここだよ、雛子」  デスクチェアに先ほどまで想っていた人の姿があった。 「碧樹くん……うそ、どうして……」 「どうしても会いたくて……来ちゃったんだ」  雛子は首まで紅潮するのを感じた。彼の低くて甘い声が心地よい。 「ミケランジェロ、かなり大きくなったね」  碧樹の手がなまこの化け物に伸びて撫でた。 「ミケランジェロを知っているの?」 「ああ。一緒に遊んだだろう? 覚えてない?」 「うそ」 「父さんが『だめだ。捨てて来なさい』って言っているのに、雛子は抱きしめて放さなかったんだ。それで飼われることになったんだよ」 「……碧樹くんはわたしのこと知っているの?」  彼は優しい笑みを浮かべる。 「ああ。八歳から知っている」 「八歳?」 「俺も雛子に拾ってもらったんだ」  雛子は少し悲しげな目になった碧樹を、首を傾げて見る。 「明日、会えないかな」 「明日?」 「ああ。都立図書館に。ここからすぐなんだ」 「うん。多分分かる。区が違うから行ったことないけど、知っているよ」 「そこで九時に会おう」 「九時……」  雛子は頷いたが、なんとなく現実めいていない。夢ではないかと思うと、すぐに不安になった。 「でもこれは夢で……」 「夢じゃない。いいか、よく聞いて、雛子。明日は誰にも行き場所を告げずに家をこっそり出て。スマホは持たずにその――化けもの、じゃなくて三毛猫を連れて来てくれ。ICカードではなく現金でバスに乗ってくれたらなおいい」 「黙って、スマホを持たず家を出る。持つのは現金。ミケだけ連れて来る」 「そうだ。約束だ」 「約束……」  碧樹が小指を出し、雛子も指を絡めた。しかし、指切りをする前に階段を勢いよく走ってくる音がして、ドアがぱっと開いた。  その瞬間、真っ暗だった部屋に明かりがつく。うつ伏せで寝ていた雛子は顔を上げる。 「なに?」 「部屋に誰かいなかったか」 「部屋に?」 「ああ。誰かに気配を感じた」  雛はぼんやりと起き上がり、部屋をきょろきょろすぐが、当然、夢の中の碧樹はどこにもいない。 「聖? 誰もいないよ。ミケじゃない?」 「そんなはずは……」  父も部屋を覗き、異常がないことに怪訝な顔をしている。 「調べろ」  聖が命令形で輝久に言う。輝久は気分を害することもなく、聖に頷き電話を誰かにかけながら階段を下りていった。 「どうしたの? なにかあった?」  心配げに言う雛子に、聖は一言――。 「なんでもない」  ドアはぱたりと閉じられた。
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